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2009年10月 7日 (水)

易経勝手解釈(六)ー地火明夷その一・箕子はこれ明夷なり

陰暦 八月十九日

 地火明夷という卦があります。正しい者が不遇の時を託つことを表した卦とされています。その爻辞は殷周革命の顛末を記しているのだという解釈もあります。

 しかし、かなり難解な爻辞でして、伝統的解釈もほとんど当を得ていません。この卦が殷周革命を表していることだけは伝わっっているもの、爻辞についてはさっぱり分からないというのが正直なところであるようです。

 しかし良く読んでみれば第五爻に「明夷はこれ箕子なり」と答えが書いてあります。つまりこれは箕子のことだと素直に解釈するべきです。まず先にいつも通 り爻辞の解釈を述べ、そしてなぜ箕子が明夷なのかを名前の意味から解き明かし、次いで各爻の細かい解説をしていきましょう。(旅行記は写真の整理が大変なので 来週に回します)

(36)地火明夷
卦辞
伝統的解釈
べっちゃん解釈
 明夷は艱を貞って利あり  明るい太陽が地中に沈んで暗闇が覆うように、(文王や箕子のような)有徳の人が不当な迫害をうけている状態。
 艱難を自覚して、苦しみつつ正道を歩むとき吉である。
 基本的に伝統的解釈と一緒。
 しかしより具体的に箕子の生涯を称賛した卦と考えられる(後述)。
爻辞
伝統的解釈
べっちゃん解釈
上六 不明は晦、始めは天に上りて、後には地に入る  暗愚な者が最高の位をしめている。
 今は最高の位にいるが、道理に逆らうことばかりしているので、そのうち引きずり下ろされて地面の底に埋められるだろう。
 最初は上って最後に地面の底に沈むのは太陽。
 太陽が隠れる日蝕は不明の最たるものである(殷周革命の時期と推測される紀元前十一世紀中期の支那では日蝕が頻発している)。
六五 箕子はこれ明夷、貞って利あり  箕子は紂王を諫めたが受け入れられなかったので狂人のふりをして難を逃れた。
 韜晦(自分の才能を隠す)して苦難を逃れるべし。
 箕子は明夷である(要するに爻辞の種明かし)。
六四 入は左腹なり、明夷の心を獲て、門庭に出たり  暗愚な君の腹の内を読めるので被害を受ける前に逃げ出すことができた。  微子啓は王の知恵袋。
 箕子の信頼を得て、三監の乱で荒廃した宋の君主として朝廷に推薦された。
九三 明夷南に狩りする、其れ大首を得む、貞ひて疾くすべらかざるなり  暗愚な君主に忍耐の限度を超えて、討伐の軍を起こす。大いに革命を成功させるであろう。
 けれども拙速であってはいけない。
 牧野の戦いと三監の乱で箕子が挙兵していれば、王位を得ることも不可能ではなかっただろう(けれども自制して挙兵しなかった)。
六二 夷は左股なり、拯として用いられし馬壮なり  左の腿を傷つけられるが(伝統的解釈では夷を"傷つく"と読む)、馬の助けを借りて逃れる。
 ひどい難儀に遭うが、迅速な対処で抜け出せる。
 箕子は王を助ける股肱の臣である。
 丞相として用いられた騎士である。
初九 明夷は飛ぶ
其の翼を垂れ
君子は行く
三日も食はず
有攸往
主人に言うこと有り
 被害が小さいうちに危険な国から逃げ去る。
 しかし飢えに襲われるなどの苦難が待っている。
 翼のような明智を持った箕子が紂王を諫めに行く。
 国の行く末を案じてもう三日も何も口にしていないほどである。

 まず箕子の説明から。箕子とは商の王族で、商王朝最後の王である帝辛(紂王)の伯父だったといわれています。箕子は仁徳があり、帝辛からも庶民からも信頼されていました。けれども帝辛が政治に倦み、奢侈に流れ、世が乱れ始めたのを憂いて帝辛に直言をしますが不興を蒙って遠ざけられてしまいます。

 時あたかも西方の周は力を蓄え、文王と武王は諸侯からも慕われていました。商の命運が長くないことを悟った箕子は、身体に入れ墨をして狂人を装い、封地に閉じこもりました。やがて周の武王は帝辛討伐の兵を挙げ、商王朝は呆気なく滅びてしまいます。武王は箕子の徳を高く買い、師として教えを請い、強いて服従の礼を取らせませんでした。

 その後箕子は遼東に封じられたとも、朝鮮の祖となったとも言われています。

 さてその箕子ですが、諱(いみな、本名)を「胥余(しょよ)」といいます。余は商の王子に与えられる尊称ですので、「胥」が名前の本質と言うことになります。「胥」は「疋」の繁字です。意味は全く同じです。では「疋」の原義は何であるかというと字統によるとこれは「足と脛」であるということになります。

 足だなんて変な名前だと思うかもしれませんが、古代の日本の人名には「タラシヒコ」というのが良く出てきます。これは「足彦」ですのでおかしくはありません。漢字の「足」には「助ける」という意味があります。「補足」「満足」にその意味が残っていますね。即ち胥余とは王を助ける王子という意味になります。分家の王子だった箕子に相応しい名前です。

 さて胥余がなぜ箕子と呼ばれるようになったか、箕という土地に領土を持っていたからと言われていますが、本当にそうでしょうか?字統で「箕」の意味を調べますと、竹で編んだ"み"(種籾と籾殻をふるい分ける道具)という意味からの派生として「足を伸ばして座る」という意味があることが分かります。

 つまり 胥余→足→足を伸ばして座る→箕子 という連想なのです。

 東アジアでは諱は他人には絶対に明かさず、普段の生活では字(あざな)を使います。字は諱に近い意味、あるいは逆の意味の言葉を使うことが一般的でした。ですので、箕子とは胥余の字ではないかと考えられます。

 ではなぜ箕子が明夷なのか、これも分かってしまえば簡単です。

 夷とはかがんで座る(蹲踞・・・うんちんぐスタイル、ヤンキー座り、体育座り)ことを表す漢字です。

 最近ではあまり言われなくなりましたが、二十年くらい前までは「日本人はすぐに蹲踞をするからみっともない」とよく言われました。支那人や欧州人は人前では決して蹲踞はしないからです。

 蹲踞は支那の南部の民族や東南アジア人そして日本人の習慣です。いわゆる照葉樹林文化、海人族に伝わる習慣です。これは屈葬にも関連があるかもしれません。甲骨文字を生み出した古代支那人は、東方の民族を表す言葉として"夷"を使いました。

 もう分かりましたね、箕子→足を伸ばして座る←→足を曲げて座る→夷 となるわけです。即ち明夷とは箕子を指す暗語と言うことになります。

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コメント

なるほどと感心するばかりです。爻辞にストーリーが付けられた感じで、記憶に残りやすく実占にも役立つ解釈になった感じがします。ひとつずつ読むのが本当に楽しいです。

箕子に好意的なことから、易経の編纂には東夷が関わっている可能性が浮かび上がってきます。

十年ほど前に中国で微子啓の陵墓が発見されました。埋葬物に「公子口」と書いてあったことが決め手となりました。当時の漢字は単純で「口」だけで様々な意味を表していたそうです。編がついて複雑になっていくのは戦国時代や漢の時代になってからです。

入は口の縁語です。易経には、四書五経に入りきらなかった伝承が記録されている可能性があります。

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