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2009年11月 6日 (金)

「ナーガルジュナへの手紙」

陰暦 九月二十日

 この一年くらい夢の話とか占いとかを日記に書くことが多くなったのですが、もともと心理学や占いは好きで大学の時も岸田秀先生の「ものぐさ精神分析」を読んだり、教職用の心理学講義を受けたりしていました(教員免許は途中で挫折しました)。

 お宮参りをしたり、自分で易の卦を立ててみたりしていると「あるいは?」と思うような現象に立ち会うことも稀にはあるものの、宗教家や占い師にでもならない限り、超常現象とかユングの深層無意識といった概念を持ち出すことなしに自然は説明ができると私は思っています。

 否定はしません。また、自然科学(一応理学修士です)はこの手のエーテルのような「あると仮定してもしなくても、現実の事象を説明する上で支障がない」存在を解明するようにはできていません。

 道具として不適なのです。自然科学が地上を走る鹿や空を飛ぶ鳥を射落とすための弓矢であるとすれば、宗教や占いは海の魚介を捕まえるための釣り竿や漁網のようなものであり、弓矢では魚は捕れませんし、漁網で鹿を捕まえようとしても大変です。

 心理学は微妙で、これは素手で動物を捕まえたり、素潜りで魚を捕らえるのにたとえられるかもしれません。陸にも海にも適用できるけれど、自分の手で触れ られる範囲の獲物しか捕まえることはできません。速さと精確さでは弓矢にかないません。漁網のように深いところにいる魚を一網打尽に捕まえることもできま せん。

 宗教はどこまでいっても自然科学のように精確に自然現象を叙述することはできません。自然科学もどこまでいっても、生命の神秘を解き明かすことはできないでしょう。心理学はついに両方を極めることはできないまま終わるでしょう。お互い守備範囲が違うのです。

 不思議な現象の話はここまでで次に最近得た知見について説明をしようと思います。

 これまで私は「意識」というハッキリとした記憶の集合があると思っていました。意識が大脳にある言語野に命令して言葉を発したり、運動野に命令をして歩いたりするのだと思っていました。

 しかし意識をそのような「意味を持った記憶の集合体」とみなすと、どうも夢や無意識や多重人格や野生児(動物に育てられた人間)の問題を理解できなくなります。動物と機能的に断絶があるわけでもない人間の脳にだけそのような意味の体系ができるでしょうか?

 そこではたと気がついたのです。意識とは言語を司る部分と一次的に接触している記憶ではないかと。

 言葉によって引き出すことができる記憶こそが意識なのではないか。

 人間は言語でコミュニケーションをとります。すると、コミュニケーションで頻繁に使う記憶と、滅多に使わない記憶に分離していきます。コミュニケーションで頻繁に使う記憶は、当然社会性を持った記憶です。

 通常意識が社会性を持っているのは、言葉を社会的生活を営む上で使うことがふつうだからでしょう。社会生活を営む上で害のある記憶は、 子供であれば行動や言葉で表出したときに叱られたりすることで、言葉との接触を失い(子供の場合言葉でなくて行動で覚えている記憶が多い)、大人になれば 自分から自発的に言語との接触を避けるようになるのでしょう。

 逆に言うと反社会的な記憶を言語化できる"場"を得ることができた人は反社会的な意識を持つことができるようになるでしょう。

 夢の機能というのは、脳が記憶を整理して、言葉化するかしないかの仕分け作業をしているのだと思います。

 ここで多少説明が自家撞着に陥っています。記憶を整理する主体としての記憶の集合があることを認めているからです。

 ここで多少修正が必要です。脳の中には多数の記憶の集合があるけれども、言語を司る部分と一次的に結合している記憶の集合が意識なのだ と。そして接触を失ったのが無意識なのだと。だから意識というのも、訓練を繰り返すことによって人間が複雑な作業や運動ができるようになるのと一緒の現象 で、一種の言語を扱う技術なのだと思います。

 ただ、記憶の集合といっても意味があるわけではなくて、言語を司る部分と頻繁に接触すると言うことで、作られた雑多な記憶の集まりな のだと思います。従って意識に意味としての統合は不可欠とは言えません。立場によって言語化される記憶に差がある人は時と場合によって人格が違うように見 えるでしょうがこれは別に脳がおかしいわけでも何でもなく、脳が器用だと言うだけなのでしょう。

 葛藤というのはこの二つの記憶が分かちがたく癒着している状態を表しているのだと思います。完全に分離していれば多重人格となります。

 「意識」というのは「言語を扱う技術」の体系なのです。おそらく碁を打つ技術や体操をする技術と仕組みの上では変わらないと思います。

 そして意識が言語化できる記憶の総体であるということは、意識は嘘をついて当然となります。記憶を完全に言語化はできないからです。記 憶の中で頻繁に引き出される部分が意識ですので、その周りに意識を否定するような記憶が隠れていたとしても、言語と接触することがなければ意識には上って きません。

 主体的な意識という実在はないと思います。あるのは言語を扱う技術の体系です。

 そうなるとすぐ虚無主義が現れて技術の体系なら消滅させても問題はなかろう。と持っていきたがる人がいるわけですが、言語がない動物や 魚や植物も生きています。生命と言語は関係はありません。「生命」と「言語と癒着した記憶の体系に過ぎない意識」をゴッチャにしているから、虚無主義に陥 るのではないでしょうか。

 言語がなくても生命はなくなりません。逆に言うと言語がない人にも生命はあります。言語的な意味合いで無価値に見える人にも生命はあ ります。権力とか知能というのは言語です。総理大臣もノーベル賞の学者も白痴も植物人間もこれは言語化ができる記憶に差があるというだけで生命の価値には 全く差はありません。言語自体に生命的な価値がないわけですので、言語価値が低いから殺して構わないと言うことにはなりません。

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