帝乙帰妹
陰暦 十月二日
昨日は寒かったのでアンカをつけました。
易や西周の歴史を調べていて思うのですが、周はよっぽど商の呪力を恐れていたのだと思います。帝辛(紂王)を倒した後もいつ反乱が起きるか気が気ではな かったのでしょう。帝辛についてはあまり気にしていないのですが、帝辛の父の帝乙に対してはえらく気にしている感じがします。
文王と武王は帝乙に何か恩義があったのかもしれません。あるいは宮城谷昌光先生が推測しているように文王か武王の母親が帝乙の娘か妹であったのかもしれません。どうも周は帝乙を祖霊の一つとして畏怖しているような形跡があります。
雷沢帰妹という卦があります。押しかけ女房のことを表す卦とされていますが、私の推測ではこれはおそらく帝乙とその息子たちを説明した卦です。帝乙とその正妻の間には三人の息子がいました。長子が微子啓、次男が微仲衍、三男が帝辛(紂王)です。
なぜ三男が王位についたのか、従来は三兄弟の母親が初め正妻ではなく、正妻に引き上げられてから生まれたのが帝辛であるからという説明がなされていましたが、これは周の文化である長子相続を商に当てはめた事による誤りではないかと思います。
商は兄弟の間で持ち回りで王位を継いだ形跡があり、儒教の影響を受けた後世の支那よりもむしろ古代日本の天皇家の皇位継承に近いところがあります。古代の天皇家では、応神王朝の頃まで末子相続が行われていた形跡があります。おそらく商にも末子相続があったのでしょう。
雷沢帰妹を読んでいると、帝乙が妹に帰る。その時に「女弟(てい:同母の弟)」を連れて行く、須(ひげづら)を連れて行く、とあります。帝乙は妹では腰 を落ち着けてしまってなかなか別の土地へ行こうとしない。という記述があります。この場合の「妹」は女兄弟ではなくて、地名とみなすべきでしょう。
即ち妹は帝乙の長子微子啓の食邑であったのだと思います。そして「女弟」は帝辛であり、「須」は微仲衍だと思います。商は王の妻の勢 力が強く、妻どい婚だったと推測されますので、となると王位を継ぐ末子は母親の実家の本拠地で大事に育てられると言うことになります。長子は父の本拠地を 受け継ぎます。つまり妹は元々帝乙が生まれ育った場所であり、帝乙が商王になってからは、王位は継げない長子の微子啓に譲られたのではないでしょうか。
雷沢帰妹の第五爻には「帝乙妹に帰る、それ君の袂なり、その『女弟』の袂の良きにしかず」とあります。これの意味は「帝乙が妹(地名)に帰る。その土地
は帝乙が慣れ親しんだ本拠地である、(微子啓の)同母弟の帝辛の食邑(即ち滅亡時の商の都)の立派さにはかなわないけれど(どうか帝乙様慣れ親しんだ妹の
土地で穏やかにお眠り下さい)」であり、商を滅ぼして帝乙が怨霊化することを恐れた周が、帝乙の鎮魂のために編み出した祝言だと思います。
「帝乙帰妹」の文は「地天泰」の第五爻にも入っています。古事記に易経の概念が組み込まれていると主張する「古事記の暗号」には、
「大和朝廷は大地の神様である大国主命を高層建築の宮(古代の出雲大社)に祀ることによって地を天の上に置く『地天泰』を表現して、万物の生成(地天泰は
万物が生み出される状態を表すとてもめでたい卦)を期待したのではないか」という推測がありました。
私の推測では「帝乙帰妹」とは滅ぼされた商王朝の怨霊を慰めるために周が編み出した祝言であり、これが出雲大社を表す地天泰の爻辞の中にも出てくるとい
うのは非常に興味深いことです。古代の日本には儒教の影響を受ける前の古代支那の知識が何らかの形で伝わっていたのかもしれません。
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