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2009年11月25日 (水)

二酸化炭素と福祉は似ている(3)

陰暦 十月九日 【上弦】

 もう一つこの両者が似ているのは、終末論と結びつけて論じられることが多いことである。二酸化炭素が際限なく増加すれば地球が灼熱地獄になる。福祉への 支出が増加することで政府債務が増加しインフレ地獄になる(経済学的灼熱地獄)。心地良い生活の代償として近い将来に大決算的破滅がやって来るという論立 てが非常に良く似ている。両方とも破滅の姿としてエントロピーの爆発的増加による無秩序を想定しているのが興味深い。

 両者の議論には人間活動の結果として排出されたエントロピーを回収する機構の議論が抜けている。人間の活動の結果として熱と二酸化炭素と固体や流体のゴミが生じる。地球の熱容量は巨大であるので人間が排出する熱くらいで地球を温めることはできない。これについては温暖化論者も認めている。固体や流体のゴミが地面を埋め尽くすと言う意見は90年代以前には盛んであったが、焼却炉の改良によって解決された。これらのゴミについては向こう数千年は心配する必要がない。残るは二酸化炭素のみである。

 最大の二酸化炭素吸収機構として海洋がある。海洋のちょっとした温度変動によって大気中に吸収されたり排出されたりする二酸化炭素の量は、一年の変動で人間の活動千年分にも匹敵する。そもそも大気と海洋では存在する分子の数に圧倒的な差があるので、地殻のごく表層と大気下部の資源だけでやっている人間がいくら何かを使ったり出したりしようが、海洋にとっては誤差の範囲でしかない。

 政府債務の吸収機構としてはどこの国も家計資産が大きい。しかし財政破綻を論じる人たちは、バランスシートの反対側にある資産について触れることは少ない。大気と海洋ほどではないが、単年度の財政赤字と、国家の総資産の差も2桁以上ある。しかも国家の支出は家計にとっては収入であるので、国家が支出を増やせば給料や年金の形で家計にはお金が入ってくるので、家計の政府債務引き受け能力はなかなか埋め尽くすことは困難である。

 人間の目に見える活動の背後には、それとは桁違いの海洋や家計資産といったストックがあって受け止めている。勿論海洋や家計資産といっても無尽蔵ではなく、いつまでも人間の好き勝手な消費を受け止めてくれるとは限らないが、今現在の人間の活動くらいで破綻するほどヤワではない。

 また地球温暖化や福祉による財政破綻・経済の停滞の解決策として提唱されているものも焼け石に水的な自己満足が多い。原子力発電が金銭的にペイする(ということは二酸化炭素的にペイすると同値)には生涯にわたって60%以上の稼働率を維持することが必須であるが、原子力先進国の日本でもフランスでもこれがうまくいっていない。しかも原子力発電の生涯コストは廃棄物の処理コストを甘く加算している傾向があるので、結局原子力発電は金銭的に赤字に終わる公算が強い。

 太陽光発電と風力発電は、イニシャルコストを回収できない。政府の補助金があれば、購入家庭はなんとかお金を回収できるかもしれないが、それでは政府の補助金の分だけ、社会全体では赤字と言うことになる。太陽光パネルや風車を作ることで、雇用を生み出すのだと割り切るというのなら景気対策としてそれもありだろうが、二酸化炭素削減の効果はない。

 植林にしても、木だって生きている以上は呼吸をする。植物が生涯で生産する酸素と固定化する二酸化炭素の収支は実際のところ解明されていない。植林によって土壌を固定して、風水害を減らし、湿気を増加して雨を増やすことは可能である。人工衛星「いぶき」の観測では、沙漠やステップで二酸化炭素が多く生産されていることが分かってきたので(おそらく地上における主要二酸化炭素排出源は人間の工業活動ではなく、岩石の風化と牧畜と推測される)、土壌の安定化という意味では植林は効果があるだろう。けれども二酸化炭素が削減できるかどうかは分からない。

 それに森林に郷愁を覚えるのは、日本人や欧州人特有の文化で、乾燥地帯に住む人たちは森林よりも草原や砂漠に郷愁を覚えるのかもしれない。無理な植林は文化侵略になる可能性があるということを、私達温帯にする人たちは肝に銘じなければならない。

 政府の支出削減が、努力の割りには額が少なく、けれども経済活動を痛めつけるには十分であることは、今日本で行われている政権交代という社会実験を見れば一目瞭然である。それに構造改革論者が提唱する規制緩和によって生まれる新たなビジネスの規模はせいぜいが数百億円規模であり、現在先進各国が苦しんでいる数十兆円規模の需要不足を埋めるには到底足りない。

 規制緩和が需要創造に効果があるのは、経済全体が拡大していた時期にそれを後押しするときだけだろうと考えられる。規制緩和自身には経済を拡大する力はない。それに政府が財政規模を縮小してしまうと、国会の富の再配分機能が弱体化するので、貧富の差はむしろ固定化するだろう。暴動以外に純粋な民間活動で、富者から貧者に富が流れる事はあり得ない。

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コメント

 べっちゃんさんの指摘されるとおりだと思います。
>心地良い生活の代償として近い将来に大決算的破滅がやって来るという論立てが非常に良く似ている。両方とも破滅の姿としてエントロピーの爆発的増加による無秩序を想定しているのが興味深い。

 環境(二酸化炭素)と福祉の話でどうしてもぶつかるのが、サステナビリティとミレニアム・終末思想(ニュー・エイジ、友愛(ユニテリアン))の親和性なんです。

>規制緩和が需要創造に効果があるのは、経済全体が拡大していた時期にそれを後押しするときだけだろうと考えられる。規制緩和自身には経済を拡大する力はない。それに政府が財政規模を縮小してしまうと、国会の富の再配分機能が弱体化するので、貧富の差はむしろ固定化するだろう。暴動以外に純粋な民間活動で、富者から貧者に富が流れる事はあり得ない。
 
 本音として選民思想の達成としての環境(地球温暖化の喧伝)による富(自由)の固定化へ自然に向かわせる方向性といい、エコロジアンと農業改革を、まるで産業革命の構造変革としての「ブラッドからブレインへ」を「コンクリートから人へ」とイメージさせたりしてますが、本当の上流階級は余程の事がない限り、変動しないものです。

 昔読んだ、星野之宣の『カルネアデス計画』?だったかで、宇宙における人類の発生確率から他の生命体の存在を否定して、銀河系の中心核(ブラックホール)ギンヌガガップ?(だったかな)を利用し、全ての星間物質を吸収し、クラインの壷のような形で銀河(世界)を再創造するのがありましたけど、環境をやたら風潮する傾向に妙な違和感を感じて上記のような話が頭に浮かんだんですね。
 
 E.F.シューマッハーの「スモール・イズ・ビューティフル(理屈の届く小さな地域)」「仏教経済学」(というらしい)がいう、健全な開発と土地の利用、世界の貧困を救うためのシンプルで現実性のある方法論として、複雑化された現代社会の問題を単純明快な構図に落とし込み、「持続可能性という概念は人間の精神的、物質的福祉を議論の余地なくあらゆる政策や決定に優先させるもの」とする考え方が、環境経済学や環境心理学の確立といった方面に影響を与え、英国で「排出権取引」が確立した原動力になったのでしょうか?
 地方分権や地方主権の流れにも結構、影響を与えているような印象を受けました。
 

 二酸化炭素悪玉論と新自由主義経済学(大きな政府悪玉論)は共産主義という敵を失った人類(というか上流階級かなあ・・・)が市民の目をそらすために生み出した過渡的な"敵"だったんじゃないかという気がしてきました。

 誰にもそういう過渡的な敵を作ろうという意図はなかったのでしょうが、これらの思想が果たした役割はそういえるものです。

 デフレと高齢化という真の課題が現れた今、二酸化炭素悪玉論と新自由主義経済学はほどなく忘れ去られてしまうでしょう。

 しかし不思議なことに日本や欧州の国々が、1人あたりのGDPで米国に並びそうになると、福祉悪玉論とか二酸化炭素悪玉論といった消費拡大の足を引っ張る思想が蔓延して、なぜか米国に追いつけなくなってしまうんですよね。

 消費が拡大しない限り経済が伸びないというのは自明の理なのですが。

 やっぱりどこかで意図的に流している人たちがいるんでしょうかね?

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