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2010年1月10日 (日)

桓武平氏の内訌

陰暦 十一月二十六日

 立川の古本市で仕入れた「相模三浦一族」(奥富敬之著、新人物往来社刊)を読んでいたら面白いことが分かりました。ものすごく基本的なことなんですが・・・

 天慶の乱(平将門の乱)に登場する高望王から分かれた平氏一族には五つの流れがありまして

長男 国香ー貞盛・・・(清盛流、北条流)
次男 良将ー将門・・・(相馬流、千葉流、上総流)
三男以下 良兼、良持、良文・・・(村岡、三浦、千葉、大庭、梶原など関東八平家)

 となるのですが、天慶の乱の結果なんだかんだで貞盛流は良兼、良持、良文の系統との抗争に負けて関東が追い出されるそうです。貞盛流は都で受領階級になれましたから、関東の所領にあまり未練がなかったというのもあるでしょう。

 となると最終的な結果から天慶の乱を評価すると、三男以下に担がれた次男系統である将門による長男の貞盛流に対する関東平氏の嫡流争いだったといえるの かもしれません。これならありふれた動機で特段不思議はありません。将門が貴種だったので大事になってしまったのではないでしょうか。桓武天皇五世の孫で すのでギリギリ皇位継承権があります。まだ皇族とか臣籍とかの区別が厳密ではなかった時代でしたし。

 貞盛流と三男以下の関東八平家は非常に仲が悪かったらしく、その結果関東八平家は清和源氏の源頼光に臣従し、これが義家、頼朝まで続きます。「本家に主 人面されるくらいなら源氏の下につく方がマシ」と考えていたらしいです。これは貞盛流の北条氏と御家人の争いに受け継がれます。幕府が日本全国を治める政 権になってしまったので話が大きくなってしまいましたが、鎌倉幕府の熾烈な権力闘争も、当人の頭の中では関東平氏の嫡流争いだったのかもしれません。

 我々から見ると「北条氏は卑官にすぎないじゃないか」となるのですが、北条氏の頭の中では「伊勢平氏亡き後の北条は貞盛流の推定相続人で、平家の中では一番血筋が高くて、源氏亡き後武門の棟梁になるのは当然」という考えがあったのでしょう。そして当時の人たちも北条氏のこの主張にある程度妥当性を認めていたから北条氏の天下が百年続いたのだと思います。このことが分からなくなったのは、北条氏の後に足利、徳川と源氏の時代が六百年続いたので、平氏のことがよく分からなくなってしまったからではないでしょうか。清和源氏については我々は詳しいけれど、平氏は室町以降重要性を失ってしまったので、室町以降平氏内部の出来事が分からなくなってしまったのだと思います。

 それとものすごく基本的なことで恥づかしいのですが、清和源氏の嫡流の摂津源氏と河内源氏の呼び名の理由は、摂津国多田庄を相続した源頼光の系統の方は 文字通り摂津に住んでいたけれど、頼信ー頼義ー義家の河内源氏の方は源頼信が河内守だったからそう呼んだだけであって、河内に住んでいたからではないと言 うことが分かりました。ややこしいですね。

 平安時代には畿内に基盤を持てた方が勝者でしたので、記録も多く残っているのですが、歴史的に重要なのは関東に流れた方でして、けれども関東に流れた方 は当時は重要視されていなかったので記録が残っていない。そのせいで史料のアンバランスが生じて鎌倉時代の物事が分かりにくくなっているんですよね。

 これは室町時代も一緒で、室町時代に重要さを増すのは東海や畿内の武士なんですが、この人たちは御家人の分家や承久の乱の敗者ですので、これまた彼等が勢力を扶植した時期の記録が残っていなかったりします。

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