三河 松平一族
陰暦 四月十日
本屋で新書形式の「三河 松平一族」(平野明夫著 洋泉社)という本を見つけて面白そうだからとカウンターへ持っていったら1900円で目の玉が飛び出てしまいました。古い本の復刊で印刷数も少ない小さな会社だかららしいのですが、あんまり直感に反するような商品は作らないで欲しいなと思った次第。
とはいえ、この本はなかなか面白いです。初代親長が流浪の職人だったこと(まあこれは松平氏の伝説を知っている人にはだいたい想像がつくことですが)、元々松平氏は武家ではなく流通業者に近い家で最初の百年くらいは戦いではなくて買い取りで所有地を増やしていったらしいこと、足利将軍の執事である伊勢氏の被官であったことなどがあります。三代目の信光まで読んだところです。
伊勢氏というと後北条氏もその一派ですから、後年家康が北条氏と同盟を結んだことは草創期の松平氏が北条氏と関係が深かった名残なのかもしれません。それと、伊勢氏と今川氏は微妙な関係にあって、伊勢氏は今川氏や吉良氏などの守護の力を削ぐために三河の土豪に反乱を起こさせたりしていますし、後北条と今川も長い間緊張状態が続いていました。だとすると、本来三河というのは反今川の感情がある場所で、今川義元の代に三河に今川氏が進出して竹千代(家康)が人質に取られたことも、従来説明されていたように松平氏が今川方だったからではなく、今川氏が三河の土豪を全く信用しておらず、弾圧政策だったのかもしれないと思いました。竹千代が織田方に誘拐されたのも松平氏の本意が反今川だったからかもしれません。桶狭間で義元が呆気なく討たれたこととその後の今川が奮わなかったことは、三河にあった反今川の風潮を考慮に入れた方がよいのかもしれません。
また、この本によると奥三河には「伊賀村」という集落があって松平氏とも関係があるようです。家康は伊賀の忍びと繋がりが深いといわれているのですが、これは家康が上方に侵出するようになってからなってからできた一朝一夕の繋がりではなく、相当に長い繋がりなのかもしれません。
中世後期に出てきた侍身分、あるいは土豪が発展し戦国大名になっていったモデルケースを詳述した本でもあります。
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