日本の所有権の発達について(三)・・・母系と父系のハーモニー・上
陰暦 七月十二日
古代の社会は母系制であったとは良く聞かれる言説です。なるほど、日本でも支那でも東洋の国の王朝史を見ていると、妃の実家の発言力がとても強く、時代を遡れば遡るほどその傾向は強くなります。
しかし日本や支那が完璧な母系制社会であったかというとそうとも言えません。今読んでいるA.M.ナイルの回想録(日本でインド独立闘争を繰り広げていた人)によりますと、インド南端のケララ州は20世紀初頭まで母系制社会でした。そこでは男が作り上げた財産は実の姉妹やその子供(甥・姪)に分配されます。それどころか王位まで子供ではなくて姉妹の子供に継承されるのです。
このように完璧な母系制の社会と比べるとよくわかるように、日本はそこまで母系制の社会ではありません。古代史を財産面から見ると、どうやら日本は社会的地位は父系で継承、財産は母系で継承する傾向があったことがわかります。
まず第一に、日本神話は天皇家の一族が(その当時の)日本中を回ってその土地の有力者の娘をお嫁さんにもらう(実態は入り婿だったのではないかと私は思うのですが)物語だと言えます。
瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)、彦火々出見尊(ひこほほでみのみこと、山幸彦)、ウガヤフキアエズノミコトの物語は瀬戸内海西部の海人族との結婚物語ですし、神武天皇とその子孫は大和盆地に根を張っていた出雲系の神様の娘と結婚していますし、応神天皇の力の基盤が母方の神功皇后(新羅系帰化人と丹波の豪族のクォーター)に近い朝鮮半島の帰化人勢力にあったことは明らかです。
かといって完全な母系社会であったかというとそうではなく、葛城氏や吉備氏や蘇我氏も他の氏族の娘が生んだ王子が天皇になった途端に力を失っています。藤原氏もそうです。摂関政治が確立するまでに藤原氏は何度か失脚しているのですが、それは送り込んだ娘が子供を作るのに失敗した時です。
継体天皇以降になると、王子王女は部民を分け与えられて、そこから上がる税で養育され、長じるに及んで養育した氏族が手足となって働くシステムになっていたと推測されています。これも母系の名残でしょう。
(これは推測であるはずです。歴史の解説書を読むと、○○皇子はその名前から○○の豪族に支持基盤を持っていたから・・・という記述がさも当然であるかのように出てきますが、書紀にはハッキリと説明はありません。皇子たちが養育氏族の支援を受けていたというのは伝承や民俗学的な知見などからの類推です。)
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