日本の所有権の発達(四)・・・母系と父系のハーモニー・中
陰暦 七月十三日
一番わかりやすいのが有名な中大兄皇子(天智天皇)と大海人皇子(天武天皇)で、中大兄皇子は葛城皇子、河内皇子という別名を持っていて、子供にも河内 の地名を関した名前の人たちがいて、河内から飛鳥にかけて基盤を持っていたと推測されています。このあたりは帰化人の痕跡も多く、中大兄皇子は百済救援の 大遠征を行ったり、百済の亡命者を大量に受け入れたりと、朝鮮半島と関わりの深い人物でした。
大海人皇子は北陸〜丹波〜近江〜尾張〜伊勢のあたりの氏族に基盤があったらしく、壬申の乱の際には尾張や北陸の海人族系の氏族から支援を受けて近江朝廷の機先を制して東国の兵力を掌握しています。
太陽神天照皇大神(あまてらすおおみかみ)を祀る伊勢神宮が朝廷の守り本尊として確立したのも天武天皇の治世です。
横道に逸れますが、壬申の乱で敗北した大友皇子の母親は伊賀氏であり、伊賀は中大兄皇子と大海人皇子の勢力の接触地点です。通説では天智天皇が大友皇子を偏愛したために大海人皇子が反撥したとされているのですが、大友皇子を後継者に選んだと言うことは天智天皇は自分の男児の中では一番に大海人皇子とゆかりが強い人物を選んだと言うことなので、天智天皇は大友皇子が帰化人勢力と在地豪族の間を取り持ってくれることを期待していたという意味でしょう。
大友皇子は大海人皇子と歌人として有名な額田王の間に生まれた十市皇女を妃にしています。額田王は残された歌から斉明天皇に仕え、多言語を操り、外交にも関わっていたのではないかと推測されます。大友の皇子は記録があまり残っていない上に戦争に負けてしまったのでさえない男として描かれることが多いのですが、敗戦や律令制の導入による不満により国内には不穏な空気が立ちこめ、唐と新羅の報復も危惧されていた一触即発のあの時期に、国内諸勢力を融和させる可能性を持ったホープだったのだと私は考えています。
額田王が途中から中大兄皇子の妃となるのはご存知の通りです。このあたり、結婚制度がまだなく、「男が女の家に通っていれば何となく夫婦」という状態だったのが、律令制の導入により「戸籍上の夫婦」が始まり、この制度導入期の隙をついて、法的には大海人皇子と結婚していたわけではない額田王を中大兄皇子が法律を盾に横取りしたのではないかと私は思います。「法的な結婚」という物を衆人に理解させるために、中大兄皇子が行ったデモンストレーションだったのかもしれません。
天智天皇が大友皇子ばかり可愛がって、王位を譲るという大海人皇子との約束(というか社会的地位の兄弟継承は当時の一般的な風習です)を反故にしたから二人は対立したという日本書紀以来の説明は疑ってかかるべきだと私は考えています。何かもっと別の、外交とか経済とかの骨太な止むに止まれぬ理由があったのでしょう。
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