政党政治の父は板垣退助ではなくて伊藤博文である
立川の都立図書館へ行って戦前の財政の基礎的な資料をコピーしてきました。
それを見ながら思ったこと、日本の知識人が日本の政党史を肯定的に捉えることができないのは下記のジレンマがあるからなんだと思います。
・板垣退助と大隈重信が作った在野の政党は内紛によって自滅
・政友会を作ったのは藩閥政治家の伊藤博文
・政友会を育てたのは貴族の西園寺公望
・大陸積極策だった政友会は、内政に関しては国民の生活水準向上に熱心だった
・欧米協調策だった民政党は、内政に関しては資本家優先で、財閥の形成や賃金の抑制に熱心だった
大東亜戦争を否定しようとすると、民政党が親資本家であったことを肯定せざるを得ない。政党政治の本流であり、国民の生活改善に取り組んだ政友会を肯定しようとすると、大東亜戦争を肯定せざるを得ない。
可哀相なのは伊藤博文と西園寺公望で、日本の民主政治のパイオニアなのに、藩閥政治家を認めたくないという知識人のエゴによって彼等の功績が全く戦後生まれの人に伝わっていない。伊藤博文なんか明治日本の国父とも呼べる人物なのに、なんで彼が千円札に印刷されていたのか誰も分からないというこの始末。
そのついでで、伊藤博文を信頼し、西園寺公望とマブダチだった明治天皇の業績も全く分からなくなっているというこの情けなさ。日本で政党政治が育ったのは、明治天皇とツーカーだった伊藤博文と西園寺公望を明治天皇が後押ししたおかげだと言うことを認めたくないからこのようなことになる。
そして、この明治天皇と伊藤博文と西園寺公望の三角形に脅威を懐いた軍部が、昭和天皇をはじめとする大正天皇の子供たちにことごとく軍人教育を施して、それによって昭和天皇は立憲政治を目指しながらも、政党に知り合いが誰もおらず、話ができるのは軍人上がりの老人ばかりという事態に陥り、それが大東亜戦争の悲劇をもたらした、ということにも思いが至らない。
大日本帝国憲法体制においては、天皇が誰と仲良しかと言うことは非常に重要なのです。大正天皇は原敬と仲良しで山縣有朋が苦手でした。昭和天皇は必ずしも軍人と仲良しというわけではありませんでしたが、軍人しか知り合いがいませんでした。そして昭和天皇の教育をお膳立てして昭和天皇をそのような状況に追い込んだのは山縣有朋なんですね。
とりあえず中学校の歴史の教科書で立憲政友会の創設者は伊藤博文であるということを教えるべきです。全てはこれからです。ここから目をそらしていることが現在の政治の混乱にも影響を与えているのです。
それとこれは日本に限らない話なのですが、第二次世界大戦以前においては、国民に優しい政治家ほど他国に対しては攻撃的で、他国に融和的な政治家ほど資本家優先で国民の生活を顧みていなかったのです。植民地の獲得は今で言えば、いわゆる「経済成長戦略」だったんですね。ここに対外積極策を国民が熱狂的に支持する土台があるのです。
そして共産主義者は、国民に優しい対外積極策の政治家の方と手を結ぶんです。そりゃそうですよね、国民に厳しく対外融和策の政治家は資本家と結託しているから、共産主義者は民政党とは手を結ぶことはできません。結果として共産主義者が大陸に攻め込んだ政友会とズブズブだったという現実を直視せざるを得なくなります。
資本家が対外融和策なのは、彼等にとって必要なのは資本の有効活用だからです。資本が富を生んでくれるのならば、そのお金を使うのは自国民であろうが他国民であろうが関係がないからです。しかし、自国民の雇用を優先しようとすると、今ほど工業が発展していない時代では、外国の土地を奪って自国の農民を植民したり、競争力のない自国の工業製品を売るための市場を力づくで確保せざるを得なくなってくるのです。
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