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2010年10月31日 (日)

天智王家に婿入りした天武天皇

 私は状況証拠からいって藤原不比等は天智天皇の落とし胤だったと思っているのですが、だとすると天武王家の系図はすごいことになるんですね。

「fuhito.pdf」をダウンロード

 天武天皇とその子孫は天智天皇の娘及び孫娘と四重に婚姻関係を結んでいることになります。これはおそらく壬申の乱で敗れたとはいえ、天智天皇の子孫は数多く残っていて、王朝内で隠然たる力を保っていたことを意味しているのだと思います。

 それと奈良時代の藤原氏は、広嗣の乱とか恵美押勝の乱(仲麻呂の乱)などの反乱を公然と起こすのですが、これは彼等は自分たちが皇孫で潜在的に皇位継承権を持っている思っていたからそういう無謀な動きにでたんじゃないかと思うのです。

 ついでに天智・天武王朝と蘇我氏の系図も作りました。

「soga.pdf」をダウンロード

 孝徳天皇、天智天皇、天武天皇、藤原不比等が全員蘇我家と婚姻関係を結んでいたという系図です。文武天皇までは蘇我系の天皇だったということができます。乙巳の変の実態が蝦夷系の蘇我氏と倉麻呂系の蘇我氏の内部争いだったということもよく分かります。山田石川麻呂殺害事件も、山田石川麻呂と赤兄の間の争いだったのでしょう。

 前の系図と合わせて考えると、天智天皇、天武天皇、蘇我氏のこの三者の血を引いていることが飛鳥時代から奈良時代にかけての朝廷で活躍するための要件であったことが分かります。

 この時期に起きた権力闘争は中大兄皇子(天智天皇)が指導したとして説明されることが多いのですが本当は蘇我氏の間の内部争いだったのでしょう。日本書紀は支那や新羅に読んでもらうために書かれた対外向けの歴史書ですので、王家が外戚に翻弄されていると言うことを書きたくなかったのではないかと思います。

 平城京に移ってからの蘇我氏は力を失うので、蘇我氏は飛鳥のオーナーみたいな立場だったのかもしれません。蘇我氏は宮廷の祭祀を握っていたらしいのですが、蘇我氏が力を失うことと、伊勢神宮の太陽崇拝が天武王朝になって急に国家宗教となることは無関係ではないと思います。

 あと蘇我氏は百済に親近感を持っていたようですが、天武王朝になってからは日本は新羅と関係改善します。その時にできた古事記と日本書紀で出雲はものすごく厚遇されているのですが、出雲は新羅と関係が深い国です。

 つまり天武王朝というのは息長氏、尾張氏などの海部系氏族(=アマテラス祭祀)と東国の首長たち(天武王朝の軍事基盤)と出雲(新羅とのパイプ)を後ろ盾にした地方色の強い王朝だったわけです。

 それで近畿地方で勢力が強い百済系帰化人や蘇我氏、そしてそれをバックにした天智王家は野党扱いされていました。地方に支持が強く、中央で白眼視されていた政権、これが天武王朝を解明するキーのように思います。

 中央で基盤が弱かったから、最後まで天智王家に気を遣い、そして新羅が反乱の続発で弱体化すると、百済王家の婿であった天智王家の白壁王(光仁天皇)によって引導を渡されてしまうわけです。

「kounin-kanmu.pdf」をダウンロード

 つまり近畿地方の豪族というのはよっぽど新羅に敵対心を持っていて(多分伽耶と百済が新羅に滅ぼされて国を追い出されたからだと思うのですが)、でもその新羅が朝鮮を統一してしまったので、新羅とつながりがある天武王家を不承ながら戴いていたけれど、その必要がなくなったらあっさりと天智王家に王位がうつってしまったという事ができると思います。

 それで地方とつながりの強い天武王朝を打倒してしまった桓武王朝は、新しい地方統治策として、皇子の積極的な地方移植を進めます。これらの皇孫がやがて武士団の核となるのです。

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