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2011年1月 1日 (土)

パワースポット、パワースポットって・・・

 この前お伊勢さんにお参りしたときに注意して参拝者の様子を見ていましたが、みんなお行儀よくお祈りしていました。まあ帽子を脱ぐのを忘れていた人は何人かいたけれど。私はお宮やお寺が好きで旅行先でよくお参りしますが、神社そっちのけで石や樹木をなでている人というのはあまり見たことはありません。

 神社新報がパワースポットばかり注目されることに危惧を抱いていますが考えすぎじゃないでしょうか。それよりも参拝の手順を絵やいろいろな言語で説明するとか、縁起を読みやすいパンフレットにまとめて配布するとか、そういう対策を採るのが先だと思います。それと木はあまりなですぎると痛みますので、その旨掲示した上で柵で囲むとかの対策をするべきではないでしょうか。

 それと、メディアがパワースポットをことさら強調するのは、神道や仏教を前面に出すことへのためらいがあるのかもしれませんが、そのあまりにあやしい新興宗教が付け入る余地を作り出しているのは問題ではないでしょうか。パワースポットブームだから皆が寺社におまいりしているというのは知識人が自分の拠って立つ基盤が崩れる恐れから勝手に思い込んでいるだけであって、人々は今も昔も神仏に会うために聖地にお参りしているだけでしょう。つまり実態は神道と仏教のブームなのにパワースポットブームと言うことにしておきたいだけではないかと。

 それに昔の人だってややこしい神様の由来とかは知らなかっただろうし、参拝の手順だっていい加減だったに違いありません。昔をやたらと美化するのは今の人を萎縮させてお宮やお寺から遠ざけるだけなので、在来宗教側も直ちにやめるべきですね。

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コメント

>それよりも参拝の手順を絵やいろいろな言語で説明するとか、縁起を読みやすいパンフレットにまとめて配布するとか、そういう対策を採るのが先だと思います。

 年末のお飾りを購入すると、神社庁の「むすひ」「まほろば」のパンフレットが入ってきて、ご指摘の活動はしているのでしょうけど、一般にまで配布することが難しいのでしょうね。
 昨年は、「インタビュー」がビートたけし氏であって、年始の番組で、伊勢と熊野古道をやっていました。本年も、「日本人の謎」なる番組をするそうですけど、神社庁も絡んでいるのでしょうかね?
 
>つまり実態は神道と仏教のブームなのにパワースポットブームと言うことにしておきたいだけではないかと。

 この辺は、ホメオパシー等の疑似科学との関係もありそうな話で、自分的には「霊性」にたいする、見方や感じ方を反らしたいことと繋がっているようには感じられます。

あのパンフレットでもまだ難しいと思うんですよ。
もっと分かりやすくしてもよいのではないかと。

それと分かりにくい場所においてあることが多いので、
入り口で積極的に配っても良いのではないかと思います。

神仏や霊というものが、物質が存在するように「ある」のかどうかは意見が分かれるところですが、人間がそのような「感じ方」を持っているのは否定できないと思います。だから、人間が持っているそういう感覚自体は否定するべきではないと思います。否定すると、そういう感覚が鋭い人たちをアンダーグラウンドな宗教とか商売に追いやってしまうからです。

磁場とか、風景とか、古い記憶からかもし出される一種のパターン認識かもしれませんけれどね。人間だって野生生物だった頃は、勘で「安全だ」「危険だ」とか判定して生き延びてきたはずで、そういった感覚の名残が霊感なんじゃないかと思っていますが、私自身はそういうものが何らかの形で存在する可能性も排除はしていません。

遅ればせながらおめでとうございます。

「神々の明治維新」を読了したあと、安部さんのエントリーを読むと、パワースポットっていうのは明治国家が目指して今現在形の上では手に入れた「日本風西欧文化」に「魂」を入れる民衆的な作業なのかも。。。と思ってしまいました。

神仏分離や廃仏毀釈で結局、一番「割を食った」のは仏教でも神道でもなく「淫祠邪教」と呼ばれた学問的にはほとんど解明されてないよくわからない民俗的な信仰行為だそうです。

迷信や妄信などと呼ばれていつしか省みられなくなった自然崇拝的な要素を持つ「神性」。

それを形だけの西欧文化の魂として、日本人は選ぼうとしているのかもしれません。パワースポットブームは作った仏に魂を入れる作業、なのかもしれませんよ(^^ゞ

私としては「神道ブーム」「仏教ブーム」ではなくって「淫祠邪教ブーム」じゃないかと思うのです。

江戸期の寺社制度下の寺社に飽き足らず、いろんな「流行神」を創りだした日本人にとって明治に淫祠邪教として切り捨てられてしまった信仰形態を「パワースポット」という西欧文化の言霊に変換して再び信仰しなおそうとしているんじゃないかと。。。。

古社や古寺は自然崇拝に適した土地に築かれ、繁栄し、信仰心が受け継がれている。名目的というか学問的というか歴史的に価値のある神道や仏教とは違う意味での自然崇拝的な信仰の対象をも境内などに含む寺社がクローズアップされている。そんな気がします。

DragonSuplexさん、あけましておめでとうございます。

なるほど、明治以降の宗教政策によって切り捨てられたなんだか良くわからない神様への信仰が復活しつつあると、それもありそうですね。

だとすると水木しげるブームとも関連があるかもしれません。

そうすると、宗教界は、宗教の国家統制を嫌う振りをしつつ、どっぷりと西欧化した宗教に浸かっていて、昔から民衆が持っている「なんだか良くわからないけれど、何かがありそう」、という感覚に応える力を失っているのかもしれません。

その意味では、宗教界がパワースポットブームに警戒感を抱くのもわかる気がしますね。

神社新報なんかはすぐに、最近の人たちの無信仰を糾弾するのですが、私は人間の心とか霊感を取り扱う能力を失っているのはむしろ宗教界なんじゃなかろうかと思うんですよね。

こういった「ありがたみ」とか「いかがわしさ」を失った宗教って、ただの道徳教師、隣組のうるさいおじさん、と何ら変わることがないわけで、それじゃあ民衆が宗教から足が遠のいて当然な訳です。

水木しげるブーム。。。

そうですね。妖怪こそ自然神の成れの果てというか別の理解の
仕方という気もしますね。

>人間の心とか霊感を取り扱う能力を失っているのはむしろ宗教界なんじゃなかろうかと

そういった感はありますよね。
宗教も科学化しているのでしょうね。

だからその信仰的飢えを潤す新宗教が流行るのでしょうね。

キリスト教圏やイスラム教圏の宗教者は、ハーリーポッターやポケモンの流行に、多神教やアニミズムの高まりを感じて警戒感を抱いているらしいです。

イスラム圏では一時期ポケモンを禁止しようという動きがありましたが立ち消えになりました。きっと宗教関係者の孫も夢中になっていて、今更止められなかったのでしょう(笑)

私は水木しげる先生を非常に尊敬しているのですが一つだけ今の鬼太郎に賛成できない点がありまして、それは何かと言いますと、時代が下るにつれて妖怪の力がどんどん落ちている点です。

初めの頃は町の中に人間と一緒に住んでいて人間を翻弄していたのが、やがて80年代になると異次元に棲むようになり、最新の鬼太郎ではゲットーを思わせるような狭い場所に息をひそめるようになってしまいました。

都市化と信仰心の弱体化で妖怪も住み心地が悪くなったということなのだと思います。

けれど・・・地方は過疎化していますし、都市もドーナツ化現象で中心部はゴーストタウン化していますので、妖怪が跳梁跋扈する空間はむしろ今増えているのです。

熊や猪が里に下りてくるようになったのは、このように人間が管理している空間が後退しているためです。

インフラの老朽化も進んでいますので、やがて荒ぶる神の祟りのごとき大災害は増えるでしょう。

都市で中国人やインド人の移民が増えているのも、都市の中心部で(日本人の)過疎が進んでいるからです。中国人やインド人には妖怪扱いして申し訳ありませんが(^^;

だから妖怪がいなくなったと悲観することはないと思うんですよね。

妖怪は天然自然の現象がその主たる性質でしょうから、都市の中では都市伝説とかいうのがその代わりを果してしまっているのでしょうね。

怪力乱心を語らずとは孔子の言葉ですが、人間の精神的欲求は大昔からあまり変わってないのかもしれませんね。

よくわからないことは、擬人化するのが理解する道としては最も手っ取り早いですから。

諸々の陰謀論なんかも、擬人化の社会科学版と言えるでしょう。

そもそも人間の頭脳活動というのは、自然環境を情報処理して、生存するための行動に変換するための機能です。だから人間には元々自然活動を擬人化して理解し、人間に対処するように自然にも対処しようとする能力が備わっていると思うのです。

肉食動物から襲われそうな環境(見通しが利かない場所、窪地)では何者から狙われているような感覚が襲ってくるでしょうし、病気になりそうな環境(湿地、腐敗物)からは悪意を感じるでしょう、逆に安全な場所(見通しが利く、あるいは隠れやすい)では何者かが見守ってくれるような感じを得るでしょう。

そもそも人間が「意識」と感じている脳の情報処理自体が、動物が自然に対して感じているであろう「安全だ、危険だ」という感覚を、様々な物に広げていった結果だと思うのです。

心理学者とか岸田秀とかあと一神教もそうですが、動物は自然に完全に適応しているので、意識がないはずで、意識というのは人間の本能が壊れたために作られた擬似的な情報処理だという言い方をしますが、私はむしろこういった自然を生き物のように感じて生存をはかろうという意識はすべての動物に備わっていて、人間の意識もその延長上にあると思うのです。

「意識」という物を自然と対立する物と考えるか、調和する物と考えるかで宗教や思想は二分化されると思うのです。

一神教、小乗仏教、科学、心理学は対立すると考えます。人間が生に悩むのは意識を手に入れたからと説明する。そして動物には意識がないから気楽だという言い方をする。自然保護運動もその延長上にあります。

多神教、密教、一部の心理学の場合は自然と人間の間が曖昧です。だから神様や動物も人間と同じように失敗したり悩んだりする、あるいは人間が自然と共感することによって一時的な安らぎを得られると考える。

意識はどの動物にもある自然理解のための機能でしょうから、人間の頭脳活動は元々自然と調和するはずだと思うんですよね。

これは私が真言密教信者でそういう風に考える環境で育てられたからだと思います。

私は思うに、自然破壊とか、共同体内部での疎外感なんてのは人間の専売特許ではなく、程度の違いこそあれどの生き物にもあるはずだと思います。

動物が自らの生存に危険なほど、草とか補食対象を食べ尽くすのは珍しいことではありません。群れを作る動物の中には権力闘争とかいじめは普通に見られます。多分バクテリアにも虫にも犬猫にも彼らなりの悩みや安らぎがあるのでしょう。

表面的理解でよいのでしょうね。集団錯誤の状態でもよい。

江戸の日本の国教ともいうべきものは「幕府が保護し、特権と義務を与えた仏教」であって国民の大多数が仏教を信仰していると同時に寺院や僧侶に支配されてもいた。

ほとんどの大衆にとっては仏教を理解するなんてことは不可能ですから変わりに理解して説教してくれる出家者というか僧侶が必要になってくるわけで名簿上の信者であっても信仰しているかどうかとなるとこれは怪しくなってくる。

わかりにくいものを、わかりやすくとりあえず理解して地域集団の求心力にするためには僧侶の説教よりも自然や決まりごとを人格化した妖怪とかの方が理解し使い易かったのでしょうね。

それらと、科学の不詳の子が疑似科学とかで、その一つの表現がパワースポットとかパワーストーンなのでしょうね。

自然が安定している間は,同一の擬人化を続けることでうまく行くのでしょう。それが自然環境が変化して,今までとは違うサイクルになり始めると,新しい擬人化が必要になり「神を殺し,新しい神に乗り換える」ということになるのでしょう。

ローマでキリスト教が広まったり,あるいは日本でも倭国騒乱が終息して天皇を頂点とする記紀神話で神様が再編成されたのは,古代の温暖期が終了して中緯度帯で寒冷化が始まったことと関連があると思います。

逆に平安時代になると中緯度帯は再び温暖化するのですが,この頃になると日本では密教が広まったり、欧州でも聖人信仰やケルトの精霊とカトリックの習合が始まって多神教的傾向が強まります。

近代になって一神教が強まったのは、寒冷化とつながりがあるんじゃないかと思うんですよね。

逆に温暖化が始まって、団結しなくてもそこそこ生きていけるような環境になってきたから、西欧でも日本でも多神教(淫祠邪教?)の傾向が強まっているのかもしれませんね。

江戸時代でもはじめのうちは「家の信仰」というのはなくて、藩主も個人で違う神様を信仰していて、別々の宗派で祭られているらしいです。それが江戸の中期頃から家の信仰が固定化し、ずっと同じ宗派で祭られるようになるんだとか。

この頃になると寒冷化で飢饉が頻発するようになりますので、日本人も「団結しないと生き残れない」という危機感が強まったんじゃないでしょうか。

一神教って危機の時代の宗教だと思うんですよ。

多神教とか淫祠邪教は気楽な時代の宗教だろうと。

温暖化すれば、作物も家畜も楽に育つようになります。防寒も必要なくなります。人間の生存域も広がります。難しいことを言わなくても生きていける時代です。

でもこれは一神教的世界観にとっては顧客を失うことを意味するのです。

だから必死になって温暖化を脅威と喧伝しているのではないでしょうか。

官僚機構とか、大企業や大資本というのもまた一神教的世界観の発露ですから、これらの組織が温暖化に警戒感を抱くのは私には理解ができます。温暖化は団結する必要がない気楽な時代だからです。

一神教的思考には、このような温暖化とか草の根的市民運動とか淫祠邪教のような分散的な行動を促進する変化を抑圧しようとする傾向が埋め込まれているのだと思います。これはフロイトが言うところの「抑圧」というやつですね。子供のときからの教育とか、町やメディアに氾濫するイメージとかに埋め込まれているのです。

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