史密簋
四月二十七日
「近出殷周金文集成」からコピーした夷関係の金文史料、商末周初の金文史料を書き下してこのブログにアップしていきます。古代支那史や古代日本史に興味がない人には退屈になってしまうかもしれませんが、ブログをデータベース代わりに使うのが一番お手軽な情報整理の方法だと最近思うようになったのでおつきあい願います。
史密簋、西周中晩期(恭王〜厲王)、陝西省出土
(金文)□十又一月、王師俗史密に命じて曰く、東征して南夷を(攻)めよ。廬虎、杞夷、舟夷、雚、墜ちずして会す。広く東国を伐つ。斉師族徒馭人乃ち図寛亜を執りて、師俗斉師馭人□□を率いて、長必を伐つ。史密玄族人釐伯棘師を司わす。周、長必を伐ち、百人を獲らふ。揚くして休みし天子、対し、もって朕文を考へ、乙伯が尊箇こ(皀殳)を作る。子々孫々それ永く宝として用へ。
(和訳)十一月王は司令官の史密に命じた。東に攻め込み南夷を攻めよ。廬虎、杞夷、舟夷、雚、は降伏せずに集合して対決の姿勢を示した。そのため広く東国を攻めた。斉の軍隊は長必を攻めた。史密は玄族人釐伯棘師を応援に送って周も長必を攻めて、百人の捕虜を得た。尊く心安らかでいらっしゃる天子はこれを賞し、私が顕彰文を考え、乙伯にこの器を作らせた。我が子孫はこれを家宝として大事にしなさい。
(解説)杞は河南省開封子の近くで、古代支那史で言えば宋の西、斉の南にあたります。ですのでこれは周と斉の連合軍が間にいた夷を攻めた記事です。南夷と呼んでいることから、夷が西周の中期に現在の河南省・河北省・山東省に分布していたと推測されます。
周と諸侯の斉の間に夷が広く分布していたのは不思議な気がしますが、当時の河南省と河北省は川が縦横に走り、湿地帯でした。中原の周族や羌族は元遊牧民でしたので、湿地帯は苦手だったのでしょう。
舟夷と金文にもありますので、夷は中原の部族が苦手とした湿地帯に広く居住していたのだと考えられます。
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