商王朝と周王朝の血縁関係(三)
四月二十六日
いくつか付け足しの話です。
殷墟からは帝乙の記録が出土しておらず、帝乙は実際はいなかったのではないかという説があります。
私はその理由は、周が帝乙の記録を消去してしまったからではないかと考えます。周を信頼していた帝辛の寝首をかく周の反抗はよっぽど後ろめたい行為だったのでしょう。周が帝辛をことさらに悪くいい、文王の神格化を進めたのはそれが理由だというのが私の推測です。
帝乙時代の記録には、娘を周の嫁に出したことや、周が商に仕えていろいろ汚いこと(主に生け贄用の奴隷の捕獲)をしていたことが記録されていたのでしょうから、記録を徹底的に消去したのではないでしょうか。
また、周公旦は伝説で言われているほどは重要な人物ではなかったかもしれないと私は考えています。結果として周公旦の子孫の魯の記録が春秋として残って史記の核となるため、周公の事跡が誇張されてしまったのではないかと考えられます。逆に召公や呂尚の事績がなんだったのかよく分からなくなってしまいました。
周公旦は、成王の母である邑姜と対立して失脚したときに歴史の表舞台からは去ったのではないかと私は推測しています。周公の事績として伝えられていることのほとんどは邑姜・呂尚・召公の三人でやったことだろうというのが私の推測です。後の歴史を見ても、姫姓というのは余り同族を信頼しておらず、常に外戚や外臣に国を左右される傾向が強いからです。
箕子が尊敬されたのは、武王にとっては曾祖父の兄弟で、当時としては異例の長寿だったからでしょう。商の長老だったのだと考えられます。その箕子が周に協力的たっだことが、三監の乱を鎮圧する上で大いに役立ちました。周にとっては足を向けて寝ることができない人間です。易経以外でも箕子は讃仰されています。
あまり褒められた方法でもないやり方で周が商を滅ぼし、それを道徳的な優劣に書き換えてしまった歴史改変が、後々まで支那人の歴史叙述パターンに影響しているのではないかと私は推測しています。
易経を見ると、商の王族や風習を記録したと思われる部分を、従来の解釈はことごとく誤っているのですが、これなども最初のうちは殷周革命の真実を隠すために、儒者は意図的に易の間違った解釈を広めたのかもしれないと思うのです。
また、商を受け継いだはずの宋は戦争に弱い国でした。商は大量の奴隷を使い、人身御供を繰り返しており、よっぽど戦いに強い国であったに違いないと推測されているのですが、私はもしかしたら違うかもしれないと考えています。
商の力の源泉はあくまで商が持つ呪力への畏れであり、実際の戦闘は余りしていないのではないでしょうか。牧野の戦いでも敗れていますし、それ以前も遊牧民に襲われて何度も都を遷しています。商はそんなに戦争は強くなかったのではないかと思うのです。
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>商の力の源泉はあくまで商が持つ呪力への畏れであり、実際の戦闘は余りしていないのではないでしょうか。牧野の戦いでも敗れていますし、それ以前も遊牧民に襲われて何度も都を遷しています。商はそんなに戦争は強くなかったのではないかと思うのです。
ご指摘の「呪力」なるものは、鎌倉武士の名乗りということでもある気がしてましたけど、どうなんでしょうね。
「宋襄の仁」にしても、「呪力」の名残が感じられてはいたんですけど、意味としては別のものでしか伝わっていませんね。このあたりに「周」の呪力への軽蔑があったのものが感じられます。 でも儒学の「礼」が形式の継承という部分はあったように見受けられるのは、統治システムとしての実は評価したということなんでしょうね。
投稿: 保守系左派 | 2011年5月31日 (火) 07時15分
あるいは「商業」というくらいですので、財力が商の力の源泉だったのかもしれないと。奴隷ももしかしたら買ってたんじゃないのかな。
投稿: べっちゃん | 2011年5月31日 (火) 07時51分
宮城谷さんの小説では、貨幣である貝の供出が取り上げられていましたけど、紙幣と違い、自然環境によって採取量が変動することが商の財力の急速な低下をもたらしたことが、転落する一因のような記述があったような記憶があります。
そうだとすると、歴史上最初の貨幣経済で国が滅んだ例ということなんでしょうか。
投稿: 保守系左派 | 2011年5月31日 (火) 08時50分
狩猟社会→農業の発明→商業の発達→都市化
という順序はかならずしも正しくないんじゃないかなと思っています。
商業ってもしかしたら、農業よりも早く、数万年前、もしかしたら人類の誕生と同時に発生しているのではないでしょうか。
別に農業がなくても、狩猟社会でも、物々交換はありうる、というか狩猟社会こそ商業が必要だと思うのですよ。
同時に工業も農業よりも早く、人類の誕生と同時に発生していたと思います。狩猟社会こそ、弓矢とか、綱とか、槍といった道具を専業的に作る人を必要とするはずです。
三内丸山みたいな例もありますから、都市(といっても数十戸でしょうが)もやはり人類の誕生と同時くらいに発生しているかもしれないと私は考えています。
商に限らず、古代エジプトも、インダス文明もかなり経済の変動の影響を受けていたように思うのです。インダス文明の消滅(移動?)も自然災害と言うよりは通商路の変動が大きいらしいですし。
投稿: べっちゃん | 2011年5月31日 (火) 18時31分