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2011年5月29日 (日)

冬方鼎

 長い金文です。冬(戈の下に冬)という軍人が東夷から国を守ったことを記念して作った鼎ですが、いろいろと興味深い内容です。前段に公式記録が、後段に冬の母親のことが記してあります。

冬方鼎、西周前期、陝西省扶風

(金文)惟九月既に望、乙丑、堂師に在り。王俎姜、内史友員を使わし、冬に玄衣、朱こ金(この2文字ワープロになし)を易ふ。冬拝稽首し揚き休みし王俎邑姜に対す。宝将尊鼎を用い作りて、夙に夜にそれ文祖乙公と文妣日にそれ用いて享孝せよ。それ子子孫孫永く宝とせよ。

 冬曰く「嗚呼王よ、冬辟刺を考甲公に唯念じ、肇吏として用ふ。乃ち子(なんじ)冬は虎臣を率いて淮戎を禦げ」と。冬曰く「嗚呼朕(われ)、考甲公を文ぶ(おぶ)。母文す、日庚戈休ひなれ、乃ち尚く安く永く宕ぎよ(すぎよ)、乃ち子冬の心、安く永く冬の身を襲げ、それまた天子に唯それ吏を享ける。子冬よ萬年天子に辟事しその身は睪することなかれ。」冬拝稽首し揚かき王命に対す。文母庚の宝尊鼎彝に用ひ作り、穆穆と夙に夜に尊び享孝し妥福なれ。それ子孫は永く宝せよと茲に刺す。

(和訳)王の九月望(十五夜)を過ぎた頃、乙丑の日、王は堂師にいらっしゃった。王の祖母邑姜は内史友員を使わし、冬に黒い衣と朱と金の糸で縁取られた装束(司令官の装束と考えられる)を与えた。冬は畏まって、王の祖母邑姜から褒美を受け取った。そこでこれを記念して宝器を作った。朝夕お供え物の煮炊きにこれを用いて、文祖乙公と文妣日をお祭りするのだ。子子孫孫これを家宝として大事にしなさい。

冬は言った「王様は私を信頼し考甲公に任命されて防衛軍の長官とされた。虎臣を率いて淮河の異民族から国を守れ」と。冬は言った、「私は考甲公に任命された、その時に母が私が無事であるように言祝いで言ってくれた『文祖乙公と文妣日よ冬を守ってください。冬が長生きしつつがなく過ごせ、冬の魂よ身体から逃げていかないように、今冬は天子様から重要な任務を仰せつかった、冬よいつまでも天子様のために一所懸命に働き、しかし命を失うことがあってはならない』」と。冬は見事に王命を果たした。そこで母のありがたい言葉を刻んだ鼎を作った。謹んで、朝に夕にこの鼎でお供え物を煮炊きし、福が増しますように。子孫はこれを長く家宝としなさい。

(解説)西周の前期第五代穆王の頃の鼎です。これとは別に冬が戎を防いで大勝利を収めたことを記念した簋がありますので、これは冬という軍人が淮河の戎(夷)から国土を守る司令官に任じられてその役目を果たしたことを記念して作った鼎です。

 この鼎の特長は、女性が関わっていることです。「俎」の字は「金出殷周金文集成」では不明となっていますが、「字統」を調べると「俎」となっていました。鼎が作られた時期は穆王の頃ではないかとされています。しかしその根拠が金文中に「穆穆」が出てくるから、というのでは弱いです。穆王に限定する必要はないでしょう。

 さて王の俎の姜とは誰でしょうか?私はこれを「王の祖母邑姜」と読むべきではないかと考えます。武王の妃で成王の母親の邑姜です。太公望呂尚、召公と協力して、幼い成王の摂政をしたと言われています。だとするとこれは成王の子の康王もしくは次の昭王の時代に作られた鼎でしょう。邑姜は長寿を保ち、永く実権を握っていたのではないでしょうか。

 この冬鼎の金文が解明できないのは、理想時代の西周前期に女が実権を握っていたはずがないという歴史学者の偏見が、西周の歴史解明を妨げている例だと思います。

 冬に与えられた防衛はかなり困難な任務だったらしく、本人も家族も悲壮な覚悟を固めていたらしいことが分かります。冬の母の祝言が胸を打ちます。特に「天子様のために一所懸命に働け、だけど死ぬな」という下りに、今も昔も変わらぬ母親の愛情を感じます。

 さらに想像をたくましくすると、冬の母というのは邑姜の知り合いだった可能性があります。母親の願いが細かく記録されているのは珍しいことです。この冬の母親というのは重要な人物だったはずです。邑姜の親族、あるいは元使用人、成王や康王の乳母といった邑姜と親しい人物で、そのため冬は邑姜から信頼されて国土防衛の任務を受けたのではないでしょうか。

 冬が功績を王から賞せられてもらった銅器(冬簋)は既にあります。この鼎は邑姜が特別に冬よりはむしろ母親に与えた鼎ではないかと考えられるのです。

 冬が率いた「虎臣」は軍事に関する記録に良く出てきますので、戦いに強い部族、あるいは何らかの兵種かもしれません。冬鼎が作られたのは此鼎の百年前、駒父簋の百五十年前の時期で、河南方面に勢力を伸ばした周族が、淮夷の強力な反抗に面したことが推測されます。

 西周の淮河方面の最前線は蔡でした。蔡ははじめ河南省上蔡県(鄭州の南方)に国を建て、その後河南省新蔡県(上蔡より数十キロメートル東)に移転しています。その間、西周と淮夷の間で激烈な攻防があったのでしょう。

 春秋時代の姫姓の邑の位置を調べると、済水と汝水(淮河の上流)に沿って並んでおり、周族がこれらの湿地帯に住む東夷を征服しながら領土を拡張していたことが推測されます。

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