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2011年5月23日 (月)

商王朝と周王朝の血縁関係(一)

四月二十一日

 古代支那史最大の歴史的事件は殷周革命です。これを機に、支那は神政政治から、貴族が庶民の世論を気にしながら寡頭政治をする政体に替わり、現在まで続いています。長い間支那人の考え方を規定してきた儒教も殷周革命を成し遂げた文王と周公旦を理想的君主と規定し、西周初期を理想時代とあがめています。

 さて、何故盛況を誇った商(殷)が、半農反牧の部族民に過ぎなかった周によって滅ぼされたかの理由ははっきりとは分かっていません。商の最後の王の帝辛が暴虐だったからと言うのが二千年来の説ですが、そのまま信じている人は今ではほとんどいません。

いくつかの説があります。
・商の祭祀が巨大になりすぎて、商や周辺国にとって負担となっていた
・気候変動があって、商が弱体化した
・商は当時山東半島の夷の攻略に集中していて、周に隙を突かれた
・商の外戚が強くなりすぎて政治が混乱した

どれもある程度正しいのではないかと私は思います。さらに私は商と周の間にあった血縁関係を加えたいと思います。

 周王朝の始まりには以下の有名な伝説があります。遊牧民だった周族を定住させた周の始祖古公亶父(ここうたんぼ)は、孫の姫昌(文王)が英明で周族を発展させるに違いないことを見抜きます。しかし姫昌は古公亶父の末子の季歴の息子です。長子相続の周ではこのままでは姫昌は部族長を継げません。

 古公亶父の思いに気がついた季歴の兄である太伯と仲雍は、自ら入れ墨をして髪をボサボサにして野蛮人の身なりをして周の後継者から退いて南方の呉に亡命しました。それによりめでたく季歴が周の部族長となり、周族発展の元を作りました。

 本来なら継ぐはずのない末子が王位を継いで国を発展させるというのは、王朝の始祖伝説のパターンの一つなのですが、周が中原に進出した当初は、商の甲骨文では周は討伐すべき敵として登場します。それが季歴の代あたりから、周は諸侯の一つとして数えられるようになります。姫昌の代になってから周は商の西方の守りを担当するまで信用されます。

 古代の部族が急に異族を信用するようになる理由は簡単で血縁関係ができたときです。季歴は商王朝から嫁を迎えたのではないかと思います。そして姫昌は商王朝の血を引いていたのでしょう。だから商から同族並みに扱われたのでしょう。

 長子相続であるはずの周で末子の季歴が部族長になれたのは、商から嫁を迎えたからだと思います。太伯と仲雍は商の圧力を受けて、亡命せざるを得なくなったのでしょう。ちなみに現在では太伯と仲雍が逃げたのは長江下流の呉ではなくて、虞ではないかと推測されています。

 殷周革命期の記事が混じっているのではないかと推測される易経でも帝乙(帝辛の父)は好意的に記述されています。私は季歴が迎えたのは帝乙の娘、もしくは妹だろうと考えています。姫昌は帝乙の孫なのでしょう。女系が強い商では、姫昌は同族並みに扱われたのではないかと思います。Shoushuukeizu01_3

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