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2011年5月29日 (日)

此鼎

此鼎、西周末(宣王)、陝西省岐山

(金文)惟十有七年二月既に魄を生ずる乙卯、王は周康宮夷宮に在り。旦、太室に格りて即位す。司徒、毛叔右、此門に入り、中廷に立つ。王、史翏冊を呼びて此に命じて曰く、「旅、邑人、膳夫、錫汝、玄衣、黹屯(純)、赤市、朱黄、䜌旅せよ」此敢へて揚き天子に対して命を用ひ、丕(さかん)に顕かにして休ひなれ。朕(われ)、皇考癸公、尊鼎を作りて、享孝に用ひ、神、匈(胸)眉を文し、寿ぐ。此萬年疆なく臣は允み、天子の令を終くせよ。子子孫孫永く宝として用ひよ。

(和訳)宣王の十七年新月を過ぎた乙卯の日、王は周康宮夷宮にいらっしゃった。早朝、太室に至って即位した。司徒(大蔵、文部大臣)の毛叔右は此門に入り、(宮廷の)中庭にたった。王は史翏冊を呼びて司徒に命じておっしゃった。「軍人、国民、料理夫、給仕女、機織り女、刺繍女、商人、金工、私に忠誠を誓ってくれ」この宣言は、国人が天子の命令を承り、国を発展させることを祈る言葉である。私皇考癸公はこの鼎を作って、神に捧げる料理を作り、神のために胸や眉を入れ墨し(一生懸命お祭りをするという意味か?)、神様を言祝ぐ。臣下よ絶えることなく王の命を受けて国を安定させるのだ。子々孫々この鼎を永く宝として用いるのだ。

(解説)東夷関係の資料ではありませんが、易経の水雷屯の参考になりそうだったので取っておきました。在位十七年目にして即位というのはおかしい気がしますが、此より先に厲王が暴虐であったため、成周の住民は反乱を起こして王を追放し、十四年間に渡って貴族による寡頭制が敷かれました。これを共和と呼びます。

 厲王の死後、この宣王が王として迎えられますが、王と成周の住民の間には緊張関係が続いていたのでしょう。十七年目にしてやっと信頼関係ができて、成周の住民が王に対して忠誠宣誓をしたことを記念してこの鼎は作られたのだと考えられます。

 宣王の治世は五十年にわたり、西周の中興の祖ともいわれますが、諸侯に対して専制的に振る舞ったため、王と諸侯の間に隙間ができ、結局は西周を弱体化させてしまいました。この鼎から分かるように、宣王は首都の住民には受けが良かったようです。厲王は諸侯の側に立って成周の官僚や手工業者を圧迫したために西周から追放され、反対に宣王は成周の住民の側に立って諸侯を圧迫したために諸侯からは嫌われたのでしょう。

 宣王は十一代目の王です。建国から二百年がたっていたと考えられます。世の中が安定すると、商工業が発達し、都市に富が集まります。今の日本のように、都市と地方の対立があったのではないでしょうか。

 創立当初の周王は弱く、諸侯の顔色をうかがうしかありませんでしたが、史密簋や駒父盨にあるように後期になると周王は大遠征軍を編成して領土拡張にいそしんでおり、商工業の発達によって周王は富を増し、力をつけていたのだと推測されます。

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