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2011年5月29日 (日)

駒父盨

駒父盨(蓋)、西周末、陝西省武功出土

(金文)唯王十又八年正月、南仲邦父令駒父、即ち南の諸侯と師す。高父は南し、淮夷はそれ取りそれ服せられる。菫夷の俗、墜る。敢へて王命を畏れて敬せずんばあらず。逆に我によりてそれ献じそれ服せらる。我即ち淮に至り、具に王命に逆らふ小大の邦を亡ぼし敢へて□ず。四月、還へりて蔡に至る。旅盨を作り、駒父それ萬年永く用ひ休ひなれ。

(和訳)王の十八年一月、南仲邦父令の駒父は南の諸侯を率いて遠征した。有能なる駒父は南に向かい、淮河の夷はやっつけられた。菫夷の一族は降伏した。王の威光を畏れて敬わないということはなくなった。逆に私によって捕虜として都に抑留され、従う状態となった。私は淮河まで到達し、王の威光に逆らう大小の国々を亡ぼし、決して(見逃すことは)なかった。四月、遠征より帰還して蔡に至った。遠征の成功を記念し旅盨を作った。駒父よこの器を大事にせよ、そしておぬしに幸運が訪れるように。

(解説)文章の内容からいって、遠征を成功させた駒父に対して王が下賜した器と考えられます。南仲邦父令はおそらく南の諸侯を統率する司令官のような役職でしょう。西周末は考古学上の時代分類で、共和、宣王、幽王時代です。厲王を含める説もあります。この時期西周は北方の遊牧民「狄(てき)」に圧迫されていました。その後幽王の時代に西周の都成周は陥落し、周は東の洛陽へ遷都します。それによって歴史の舞台は漢中から黄河中流へ移ります。

 狄によって圧迫されてなのか、あるいは西周が東夷の攻略に明け暮れている間に狄によって本拠地を突かれたのかは不明です。しかし、西周の中期から後期にかけて漢中の周族は河北・河南・山東に居住する東夷を攻めて、東に居住域を拡大していたようです。史密簋では攻撃範囲は(当時の)黄河や済水でしたが、駒父簋では攻撃範囲は淮河に達しています。

 正月に出発し、四月には帰っていますのでそれほど遠くへは遠征していないはずです。帰還したのが蔡(河南省南部)ですので、ここでいう淮夷は安徽省あたりに居住していたのだと推定されます。

 西周はその創建において山東省の付け根に斉と魯を配置することで東夷を南北に分断し、遼東に燕を配置し北側の夷を斉と燕で挟み撃ちにし、斉・魯・宋・陳・蔡を使って南側の夷を沿岸に向けて圧迫していったのではないでしょうか。

 斉と燕によって挟み撃ちにされた夷は朝鮮半島の方向へ逃げ、南の諸侯によって圧迫された夷はあるいは南に逃げて呉越を建国し、あるいは日本列島へ逃れたのではないかと考えられます。

 また魯の周辺には帰化したと考えられる夷の兆候も見られますので、中原の風習に染まって同化していった夷も少なくなかったのでしょう。

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