« 大政翼賛会にしたら何も決まらない | トップページ | 消費税を上げるときには選挙をするんだよね? »

2011年6月 7日 (火)

宗周鐘

宗周鐘、西周前期、出土地不明

(金文)王肇て文武の勤めたる疆土を矞省す。南国(服)子、敢て我が土を臽虐す。王鬲伐してそれ至り、その都を菐伐す。(服)子廼ち遣閒し、来たりて昭王に逆ふ。南夷東夷の具見するもの、廿又六邦なり。
 隹れ皇上帝百神、余小子を保ち、朕が猷成有ることを競ふなした。我隹れ配皇天王に司配し、対へて宗周の宝鐘を作る。倉々總々、(央隹)々雝々として、用て丕顕なる祖考先王を邵格す。先王それ厳として上に在り。蓖々豊々として余に多福を降し余に順孫に福あらしめ、参の寿を隹れもとむ。㝬それ萬年四国を畯保せんことを。

(和訳)昭王はかつて即位の後初めて文王武王が経営された南方の領土を巡検された。それというのも南国(服)子があえて我が国の領土呂を侵攻してきたからである。昭王は周辺を征伐しながら南国(服)子の本拠に迫った。南国(服)子はおそれて和を求めて、返って昭王を迎えた。その時に我が国に服属する南夷東夷は二十六カ国を数えた。
 これみな皇上帝百神がわれを援け給うや所以であり、私の計略は全て成就した。そこで昭王の徳を讃えるために宗周の宝鐘を作った。この鐘で祭をすれば、祖神たちの霊を招くことができるであろう。これをもって祀れば、先王は厳として上帝の側にあり、子孫に絶えることのない福がもたらされるであろう。㝬(呂の君主)は萬年に至るまで、永く四国を保たんことを祈る。

(解説) この金文は、昭王末年の南征を指しているものと考えられる。そのため鋳造されたのは昭王末、もしくは穆王初年と推測される。
 二玄社の「金文」によると、呂は姜姓四国の一つ甫(呂)で、古くより河南の西南部にあり、周とは代々通婚関係にあった。残りの三国は斉、許、申。書経によると、呂は苗族を攘った神話を持つという。「(服:服のつくり)」は卜辞にみえ、中原の部族と境を接した南方の異民族であったと推測される。
 春秋時代の地図では呂と申は洛陽の真南、長江水系の漢水の上流部の邑とされている。東には蔡があり、南に数百キロ下ると楚に出る。西周の記録は東夷と楚は区別しているので、この(服)は東夷とは別の民族で、周と楚の間に割拠していたのではないかと推測される。
 昭王はこの南征で死去したことになっており、その後の西周の領土拡張は淮河方面に向かうので、漢水方面の遠征は余り成功しなかったのかもしれない。

« 大政翼賛会にしたら何も決まらない | トップページ | 消費税を上げるときには選挙をするんだよね? »

易経・春秋」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/173723/51883574

この記事へのトラックバック一覧です: 宗周鐘:

« 大政翼賛会にしたら何も決まらない | トップページ | 消費税を上げるときには選挙をするんだよね? »

2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ