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2011年6月 4日 (土)

彔伯冬

彔伯卣、西周前期、出土地不明

(金文)王冬に命じて曰く、ああ、淮夷敢へて内国を伐つ。女それ成周の師氏を以いて、于古師に戌れと(まもれと)。伯雝父、彔の暦を蔑はし(あらはし)、貝十朋を易ふ。彔拝して稽首し、伯の休に対揚して、用ひて文考乙公の宝奠彜を作る。

(和訳)王は冬に命じておっしゃられた。嗚呼、淮夷が我が国の領土に攻め込んできた。お前は周の軍隊を率いて、于古の基地でそれを防衛せよ(そして見事に任を果たした)。伯雝父は冬の軍功を書き写した表を器に入れて、冬に貝十綴りを賜った。冬はこれを恭しく頂戴し、伯の褒美を記念して文考乙公の宝器を作った。

(解説)以前にも紹介した冬の別の銅器です。「金文」の解説にも、当時の淮夷は淮河上流に住み、成周の本拠地近くにも出没していたのではないかと推測があります。文考乙公は冬方鼎に出てきた文祖乙公と同じでしょう。

 次の彔伯冬(皀殳)の解説によると、冬は商の遺臣、もしくは山東地方の強力な豪族であるらしいです。虎臣は周が商を滅ぼしたときに再編成した、商に服属していた東夷系の部族の軍隊らしいので、冬は虎臣の司令官であったのかもしれません。

 服属した部族を、かつての仲間の攻撃の先鋒に使うのは古今東西軍法の常道でした。忠誠心を試すのと、お互いを弱体化させるのと、服属部族がその地域を知悉しているためです。

彔伯冬(皀殳)、成周前期、出土地不明
(金文)唯王の正月、辰(とき)は庚寅にあり。王若くのごとく曰く、彔伯冬よ。ああ乃(なんじ)の祖考より、周邦に勲有り。四方を佑闢し、天命を恵張せり。女肇て墜されず。余女に秬鬯一卣、金車、(夲長)、朱虢斤、寅皀朱裏、金甬、畫昏、金厄、畫甫、馬四匹、攸勒を易ふ。敢へて拝手稽首し、天子の丕顕なる休に対揚して、用ひて朕が皇考釐王の宝奠(皀殳)を作る。余それ永く萬年宝として用ひよ。子々孫々、それ師刑して茲の休を受けよ。

(和訳)王の正月。庚寅の日。王はこのようにおっしゃられた。「彔伯冬よ。ああお前は祖先の代より周のために働いて勲功があった。四方をへめぐり、尊い王の威光をみなぎらせた。お前は守って攻め落とされることがなかった。そこでお前に柄杓、鍋、金銅で飾った車(湯の金車)、皮革を巻いた横木、弓袋、朱の車屋根、斤は未詳(戦車に附属する装飾か?、戦車を覆う皮革、馬をつなぐ金具、等を与える」冬は恭しく褒美を受けた。ここに王のありがたい御心を記念して、私の祖先釐王を祀る宝器を作った。我が子孫は永くこれを宝として、王のために戦い、王の恩寵にあずかるように。

(解説)冬の西周防衛の勲功はかなり大きかったと見え、たくさんの銅器が残されています。戦車兵の装備の資料としても重要です。易経でも見かける意味不明とされてきた文字も出てきます。
 彔伯冬はその父を釐王と称しており、商の有力な部族。あるいは服属した東夷の高位の人間と推測されます。二玄社の「金文」によると、釐王とは他の金文に天子聖の名で見える山東省にいたらしい強力な豪族で、成王の時代に周に反抗して亡ぼされたと記録ではなっています。これを祿父の叛といいます。
 王姜は「金文」によると成王の妃の可能性があるそうです。しかし、そうなると邑姜が武王の妃、成王の母として実権を握ったのに引き続いて、同じく羌族の出身で多分邑姜とも親戚の王姜が引き続き子の康王や孫の昭王の時代にも実権を握ったと言うことになり、前期の西周は長年にわたって羌族の女性に実権を握られていたと言うことになります。
 穆王の孫の懿王の時に西戎の侵攻に耐えかねて西周は遷都しており、弟によって王位が奪われるなど混乱し、懿王の子の夷王の時に西周は諸侯を糾合して斉を攻めて斉の哀公を鼎で煮ています。斉が西周の王宮に対して影響力を失うのと、西周の衰微が符合していて面白いです。
 さて彔伯冬が西周から重用されていることから、反抗した釐王は必ずしも殺されたのではないかもしれません。以前にも指摘したように、彔伯冬の母親、すなわち懿王の妃は、王姜の要請で鼎にまで名前が刻まれています。釐王が山東省の有力な豪族であったとすると、彔伯冬の母親、乃ち釐王の妃は斉の王室からお嫁に行った姫君かもしれません。だとすると、王姜の姉妹、もしくは叔母・姪の可能性が高いことになります。
 だいぶ想像が入りますが、山東省の強力な東夷の豪族である釐王が斉と婚姻して同盟関係を結んだけれど、何らかの理由で西周との間で一時的に敵対関係に陥った。その後、釐王の妃の姉妹である王姜を通して周・斉・彔伯冬(釐王の子)は和解し、彔伯冬は虎臣(服属した東夷で構成される強力な弓兵)を率いて周のために淮夷を攻撃して大いに戦果を上げた。という歴史が想定されます。
 服属した東夷の一代目だった釐王はまだ中原への警戒心が強く、子の彔伯冬に代替わりしてやっと完全に中原に帰化したのではないでしょうか。

 商の始祖湯の金車は豪華で強力な戦車の代名詞として金文に出てきます。湯は弓矢をはね返したという俗信があるそうですが、これなども湯が新技術を搭載した戦車をもっていたからかもしれません。そのあたりを言っているのでしょうか、商は元々は騎馬民族で、中原を征服した王朝だという説が昔からあります。

 斉は春秋時代にも魯に姫君を送り込んで引っかき回していますので、そういう戦術をもった国なのかもしれません。そう言えば太公望が描いたと呼ばれる「六韜」も女を使って敵国を亡ぼす戦術が書かれていたんでした。斉の王室には近親相姦の記事があり、どうやら中原の部族とはだいぶ異なった規範をもっていたようです。

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