易経勝手読み(二七)・・・睪地萃(沢地萃)
七月二十七日
沢地萃は従来の解釈では、大勢の人間が集まって力を合わせることとされています。萃とは元々草が集まっている状態を表します。さらに卦辞には「王有廟にいたる」「大いなる牲(犠牲)を用いるに吉」とあり、これは王が国家の大事の成功を神に祈り、犠牲を捧げること推測されます。
私の解釈でも大意は同じです。私の考察ではこれは、巫女が稲の無事な収穫を神に願って舞い踊る祭儀であり、伊勢神宮の斎宮の原型と考えられます。
孚へること有り、終ならず
乃ち乱れ、乃ち萃する
若が号し一握し笑となる
孚は乃ち龠を利用す
萃するが如く嗟するが如し
萃に位有り
孚に匪ず
斉が咨りて涕洟す
稲束をつかむが、編まない
稲穂が触れあうのが乱
サラサラと音が鳴るを萃という
巫女が祝詞を収めた器を前にして祝歌を謳う状態が若
稲束を握って舞い踊ることを笑という
竹笛を吹いて神楽を踊る
稲束をつかみ神託を求めて祈る
神の前に立つ
稲束を手放す
斉女が神に願いを涙ながらに訴える
睪地萃は上六、乃ち文末から分析していく方がよく理解ができます。上六は「斉咨涕洟」とあります。斉は神に奉仕する婦人が髪飾りをたくさんつけた状態です。よく古代の想像図に出てくる、かんざしや勾玉をいっぱい身につけた巫女を想像してくれればよいでしょう。
睪地萃の場合この斎の示の部分が員になっています。員はお供えを入れる鍋ですので、これは巫女が神様にお供え物を捧げている状態です。涕洟は涙と鼻水です。従ってこれは巫女(斎宮)が涙ながらに神に訴えることとなります。
孚は従来の解釈では誠意を表しますが、本来の意味は手でつかむ、捕まえるですので、私は全て「つかむ・握る・捕まえる」と解釈します。差は稲藁を神に捧げて祈る状態です。ですので睪地萃は稲藁を握って何かをすることだと推測できます。
龠は竹笛です。竹笛を束ねた物ですので、笙(しょう)みたいな楽器かもしれません。あるいはパンの竹笛かもしれません。号(號)は叫ぶことですが、どうやら歌うことと解釈すれば易経が理解しやすいことが分かってきました。古代の祈りや伝承は歌によって伝えられたのです。
若と笑は甲骨文字や金文では非常に似た形をしており、元々はほとんど意味が同じです。どちらも身をくねらせて踊る巫女です。若は祝詞を収めた器があり、笑は稲束(禾:これが竹になってしまった)をつかんで身をくねらせて踊る(夭)状態です。
若も笑も巫女が憑依状態になって神のお告げを受けようとする姿です。そして神の意に沿うことが「若」(ごとし)であり、憑依状態になって妖艶な雰囲気を漂わせるのを「笑」(わらふ)と言います。笑う門には福来たるというやつで、笑いがある場所には神が宿りやすいのです。
乱は糸がもつれた状態。終は糸を結ぶという意味です。これはおそらく稲束を編まない状態で手でつかんで振ることを意味するのでしょう。これによってサラサラという音が鳴ります。これを楽器にしたのが「ささら」です。
民謡や雅楽はささらや笛や鈴などで単調な音楽を繰り返すものが多いのですが、それは元々これらの音楽が巫女をエクスタシー状態に導くためのBGMだったからです。単調な音の繰り返しの方が人間は催眠状態に陥りやすいからです。
シンバルや銅鑼を鳴らすのは、巫女をエクスタシー状態から正気に戻すためでしょう。
以上の考察から、睪地萃は巫女が信託を得るお祭りと考えられます。伊勢神宮の古い祭儀を表しており、水睪即(水沢節)同様に日本人にとって非常に重要な卦です。
最後になぜ巫女の祭儀が「睪地萃」なのかですが、繹は糸の束から一本だけ糸を抜き出すこと(刺繍をやったことがある人には、どういう動作か分かると思います)です。
また懌は詩経の小雅の節南山に出てくるのですが、そこには「既に夷ぎ(たひらぎ)既に懌(よろこぶ)」とあり、心のときほぐれた喜びを表す漢字です。この表現は面白いことに節南山という詩に出てきます。水沢節ですね。
このように睪には選ぶ(神託を得る)、よろこぶ(憑依状態になる)という意味があります。
それゆえに地の神に収穫を祈る(あるいは感謝する)祭を睪地で表現したのでしょう。
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