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2011年8月31日 (水)

戦国期に儒教はおそらくトンでも扱いされていた

 易を当時の漢字の意味を頼りに解明していくと、儒学者が自らの主義主張に合わせるために易をかなり強引に解釈していたことが見えてきます。地山兼(謙)や風睪(風沢)中孚などはほぼ意味が反対になっています。

 論語が提唱した道徳は素晴らしいと思うのですが、儒者の古典学はかなり出鱈目で、支那の古代の姿をゆがめていると思います。当時はまだ商や西周の頃の記憶が残っていたでしょうから、儒者のトンでもな古代の想像図は鼻についたのではないでしょうか。

 秦の始皇帝が儒者を弾圧したのは、彼らのモラルを畏れたからではなく、実際出鱈目な知識を広めていたからではないのでしょうか。

 儒教の道徳は素晴らしいと思うのですが、儒者の五経解釈は間違いだらけだったのではないかと思うのです。

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易経・春秋」カテゴリの記事

コメント

それをマジで信じて国を潰したのが王莽だったわけですね。
そのころになると、戦国期の記憶も失われていたのでしょう。

 「焚書坑儒」の意味が随分と変わってしまいますね。
 「歴史修正主義ノー」の方達にトンデモ扱いされかねませんね。

儒教は過去は理想的な政治が実現されていた、自分たちは真の伝統に回帰するのだということを絶対的な根拠にしていました。だから自分たちの思想に合わせて歴史を書き換える必要があったのだろうと思います。

孔子は現実主義的な思想を唱えましたので、彼の中では本当の歴史と思想が調和していたのでしょう。

歴史の改変は孟子でスタートし、荀子になると陰陽思想を根拠にした中国の古典の大幅な書き換えが始まります。私の荀子の研究はちょっと中途になっているのですが、荀子は陰陽思想を使って歴史や思想を解明しようとしており、自然科学と人文が混濁した支那の世界観は荀子に始まるのではないか、そんな風に思っています。

まあこんなことを考えているのは私くらいなので、世間的には私の方がトンでもなのでしょうけれどね。

始皇帝は秦で、西域からの知識を得ていたでしょうから、儒教が変なことを言っているというのはわかったんだろうと思います。

秦の法治主義は多分メソポタミア、或いはユダヤ教の律法主義を参考にして作られたのではないかと思っています。

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