易経勝手読み(四十)・・・地雷復
八月二十七日
従来の解釈では、復とは一度なくなった物が復活することとしてきました。しかし地雷復に出てくる六つの復のうちで復活を意味するのは最初の不遠復だけで、残りは返答する、繰り返すという意味で使われています。
字統によると遠とは死者に璧を持たせて死出の旅路を送る葬送儀礼です。そして復とは死者の蘇りを願う招魂儀礼です。従って不遠復とは、遠せざれ(しぬな)と復す(魂振り)となります。残りのパターンをこの魂振りの細かい方法と解釈している人もいますが、よく分析してみると6つとも違う意味を持っていました。
不遠は復
休は復
頻は復
中行は獨り復す
敦は復
迷ひて復す
災眚有らん
行師を用ひなば
終ひに(つひに)大敗有らん
其の國君を以にす(ともにす)
十年に至るまで征して克たず
死者の魂を呼び戻す儀礼を復という
御恩に奉公でこたえるのを復という
水垢離は繰り返し行うので復である
一物を繰り返し擦るのを中行という
神に捧げる煮物は何度も味見をする
迷子は同じ所を行ったり来たりする
思いもよらぬ災いがあるだろう
大軍をおこせば
大敗北を喫するだろう
そして君主の座も危うくなる
十年は立ち直れない
休の本来の意味は、王が臣下に対して、功績を賞してご褒美を与えることです。ですので「たまふ」と訓読みします。これは金文に数限りなく出てくる用例です。主君から与えられた恩賞に対して、臣下は必ずこたえます。これを対といいます。言葉でお礼を述べ、記念する金属器を作り、王の恩賞にこたえるべくますます働きます。
これが封建制です。商の王は神様でしたので、臣下には一方的に忠義を要求するだけでしたが、周は合理的なので、主従関係もギブアンドテイクです。すなわち復(返答する)になります。
頻には水辺という意味があります。字統で白川静は、水辺で行う何らかの儀礼ではないかと推測していますが、それ以上のことは用例がないので不明だそうです。私はこれは日本の水垢離のような儀礼ではないかと考えます。水垢離は、水をかぶり、祠で祈り、また水をかぶるという動作を繰り返して神に願いの成就を迫る儀礼です。似たような習慣が古代の支那にもあったのでしょう。
中行獨復、これが一番面白い句で、解けたときには思わず笑ってしまいました。獨とは対偶(つがい)のいない牡(オス)の獣です。一匹狼です。蜀は牡の獣を表す象形文字ですが、なぜ牡と分かるかというと、虫の字で表現されている部分は要するにペニスだからです。蜀とはペニスが強調されたイヌの姿を現した字です。
中行とは真ん中を進むという意味です。山睪損(山沢損)・風雷益では、誰もが納得する中庸の行いという意味で使われていました。しかし地雷復の場合、ペニスを強調した男性が一人で繰り返し真ん中に何かを入れることですので、中行獨復とはせんずり(オナニー)です。
しかしまあ同じ書物の中で中行を一方では王者の規範の意味で使い、一方ではオナニーの意味で使うとは、彼らは後世の人たちがこの書物を道徳の奥義として、鹿爪らしい顔で論じることを予想してこの書を作ったのでしょうか。易を作った人たちはよっぽどのイタズラ好きです。
易をコチコチの道徳のテキストだなんて考えたらとんでもない目に遭います。易とは生命力あふれる古代人の世界を赤裸々に表現した生きた書です。
敦復、これはわかりにくいのですが、敦とは土器の深鍋で羊の肉をじっくりと念入りに煮込むという意味ですので、何度も味見をする、水を入れ替える、灰汁を取り除くという意味ではないかと思います。
迷復は文字通り迷子になっていったり来たりするという意味でしょう。
後段は意味はハッキリしていますが、地雷復の卦の中での位置づけがよく分かりません。占断例かもしれません。
あるいは中行をちゃかしている(というか当時のスラング?)ことに気がついた人が戒めの言葉として挿入したのかもしれません。地雷復以外の卦では易は君子の理想的な生き方として中行(中道、中庸)を奨励しているのですが、地雷復に従えば、中行に専念するとはオナニーに熱中することになってしまうのです。
中行が大事だと言っておきながら、それに熱中するのも結局はオナニーにふけるのと変わらないと言ってのけているわけで、易を作った人たちは相当に高度な知性を備えていたと言えましょう。
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