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2011年9月15日 (木)

久しぶりにリチャード・クー先生を発見

 外紙で解説をしているのを発見しました。

Richard Koo: Now The Whole World Is Going Through The Process We Went Through

 お元気そうで何よりです。

 リチャード・クー先生のバランスシート不況論と、それに則った麻生政権の政策パッケージは、世界的に「なかったこと」にされていますが、今の不況を抜け出す方法はこれしかありません。ようやく世界も目を向けるようになってきたと言うことでしょうか。

 Baatarismさんの溜息通信や、高校生からのマクロ・ミクロ経済入門でも話題になっていることですが、資本主義の経済では、資産は負債とバーターでしか発生しないです。

 バランスシート不況論は、この最も基本的な経済認識に立っています。

 しかし、世界中の人たち、特に経済に影響力がある人たちが「誰かが債務を拡大しないと経済は成長しない」と言うことを頑なに拒否しようとしています。

 社会全体として債務が拡大しない状態で、誰かが頑張って富を生み出すと言うことは、誰かの所得が減ると言うことと同値であるのです。

 それを防ぐためには、政府が経済的に負ける役にならないといけません。

 新自由主義は、政府に経済競争を勝たせようとする理論です。しかし、そうすると民間の中に敗者が現れます。

 負債を増やさずに貨幣の量を増やす方法が一つだけあります。通貨発行益です。貴金属の地金をコインにして、材料費と加工賃よりも高い価値をつけて流通させるのです。徳川幕府の最大の収入源でした。

 私は一兆円玉を政府が発行するのが一番良いのではないかと思います。

 一兆円玉法を国会が制定し、法的に一兆円玉に日本銀行券一兆円分の価値を持たせる。それを政府が日本銀行に預けることで一兆円を引き出して歳出に当てる。

 無制限に一兆円玉を鋳造されるとさすがにインフレになるでしょうから、国会決議が必要とか条件をつければいい。

 日本銀行は国債や社債を買い取ることで通貨発行をしていますが、これは日本人の労働を担保に通貨を発行しているのと同じです。

 しかしこれだと、民間が債務を縮小し始めたときに、中央銀行が通貨発行量を増やせなくなる袋小路にはまります。

 日本銀行はおそらく民間の企業貯蓄投資差額を見て民間の資金過不足を判定する仕組みになっており、企業が身を削って負債を減らしている状況を「企業は余った金を債務返済に回しているくらいなので、資金は十分である」としか判定できないのでしょう。

 戦後の日本円は労働本位制とでも呼ぶべき制度だったのではないでしょうか。日本銀行が国債や社債を担保に円を発行することで、民間は最終的には日本銀行に対して債務を返済する義務が生じ、一生懸命働く。円が増えれば増えるほど働く。そういう循環があったのだと思います。

 これだと日本の究極的な所有者は日本銀行と言うことになり、そう考えると、確かに日本銀行に対して不思議と誰も文句を言わず信仰に近い感情を抱いているのも分かる気がします。

 しかし日本銀行が(実際には市中の銀行を通してですが)金を貸す相手というのは企業ですので、今のように企業が債務を圧縮し始めると、通貨を増やすことができなくなります。しかし家計は通貨を必要としています。このギャップが日本や先進国を苦しめているのではないでしょうか。

 日本銀行券を発行すると言うことは、民間企業の債務を増やすと言うことですので、日本銀行が発行したがらないのも分かる気がします。しかし家計は円を必要としている。

 労働本位制の世の中で、通貨が不足するデフレ状態になれば、国民は中央銀行に対する債務が減るわけですので、働かなくなって当然です。

 ここは政治が責任を持って一兆円玉を作るのも悪くはないと思います。これは民間の債務拡大を伴わない通貨発行です。ただし、政治への国民の信頼度がダイレクトに日本円の価値に響くようになる制度でもあります。

 国権の最高機関は国会なのですから、通貨の価値に対しても最終的には国会が責任を持つのは、日本国憲法のあるべき姿です。

 最終的に、通貨の総発行量も国会のコントロール下に置けばよいと思います。国会で市中の通貨の過不足が議論されるようになるのは、民主主義の観点からも望ましいと言えます。

  管理通貨制度というのは国民の労働を担保に通貨を発行します。基礎はレンテンマルクです。第一次世界大戦後のハイパーインフレの時期に、ドイツは、金準備ではなくて農業生産を担保にマルクを発行しました。戦時賠償という債務を逆手にとって、富を生み出す制度がその時できたわけで、最大の債務を持つ日本とドイツが、その後最強の通貨を作ったのは理由のあることだったのでしょう。

 債務を逆手にとって富を生み出す制度を、資産を持つ英米に導入すれば、必要もないのに債務が増えて当然です。本来ならば英米のように資産を持つ国には管理通貨制度は必要なく、金本位制のままで良かったのでしょう。そういう国は、一兆円玉のような法定準備貨幣とでも呼ぶべき物を作り、それを担保に通貨を増やして、管理通貨国に対抗すれば良かったのです。

 返すべき債務がなくなった管理通貨国が、一兆円玉管理制(法定準備貨幣制度)に移行するのは歴史の必然ではないでしょうか。

 一兆円玉は鋳造ずるだけでなく、場合によっては国が日本銀行券を返済することで、日本銀行から返してもらうことも必要になるでしょう。そうすれば、通貨発行量を国会がコントロールできます。法と兵力と並ぶ国家の権力装置である通貨が、なぜか国会ではなく、日本銀行と財務省のコントロール下にあるのは考えてみれば憲法違反状態です。

 というか、肝心の通貨に対する規定が日本国憲法にないのは考えてみれば不思議なことです。日本銀行法は日本国憲法、もしくは大日本帝国憲法(日本銀行法は戦前に制定されている)のどの条文に根拠を持つのかはなはだあやふやです。これは日本国憲法の欠陥ではなかろうかと思います。

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経済・政治・国際」カテゴリの記事

コメント

麻生政権で一番まずかったのは、インフレは悪魔で引き締め上等の与謝野馨を重用してしまったことでしょうね。麻生政権が与謝野を使わずにリフレをしていれば、リーマンショックから日本を救うこともできたでしょう。
麻生さんに一度、与謝野馨評を聞いてみたいものです。当時の彼の政策や、その後の彼の政治的行動について。

 麻生さん自身はリフレに理解がありましたが、肝心の経済財政担当の大臣が引き締め大好き人間だったので、リフレが中途半端になりました。

 麻生政権は政府系金融機関に対する資金準備を拡大することで、裏口的に通貨発行を増やす手法をとりましたが、これは日本銀行にとって脅威だったのでしょう。与謝野氏が麻生政権倒閣に動き出したのもこのあたりに脅威を感じたからかもしれません。

 麻生さんは多分一緒に仕事をした人の悪口は言わないと思いますが、麻生さんのブレーンだった人たちとか、首相補佐官だった人に、与謝野氏を中心とする金融畑の人たちの感想を聞いてみたい気はしますね。

麻生政権に対する罵詈雑言はそれはもうひどい物がありました。しかし政策に対する正面切った批判はありませんでした。

麻生政権は、誰かにとって非常に不都合な政策を進めていたのでしょう。しかしそれを正面切って批判してしまうと、彼らの利害が正面に出てしまうので、罵詈雑言で人気を下げる手法をとったのだと思います。

麻生政権の政策というのは、戦後の日本を支えてきた中小企業を立て直す、新中間層育成政策とでも呼ぶべき政策でした。

これに対して麻生政権に取って代わった民主党の政策は、中小企業を淘汰し、大企業に雇用を集中させる政策です。

また金融については、麻生政権が政府系金融機関を活用したのに対し、民主党は金融政策は全て日本銀行に集中させようとしています。日本銀行を頂点とする金融のヒエラルキーを強化する政策です。

経済を規制する国の法や制度というのは、20世紀前半の財閥への集中を反省して、中小企業を温存するために作られましたので、この規制を外してしまうと、経済の資源が財閥に集中し、財閥と話がつけられる政府にむしろ権力が集まるのは考えてみれば当然です。

規制を外すことによって、ビッグプレーヤーの自由度は上がりますが、一般市民の隷属度はむしろ強まります。

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