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2012年4月18日 (水)

荀子 巻第十五 解蔽篇第二十一 その一

三月二十八日

 現代語の本はもう読みたい物がなくなったので(暇つぶしに読んだら楽しそうな本は多いのですが、あいにくその暇がないので、どうしても読みたい本だけを厳選して読んでいます、荀子とか詩経とか・・・)ちょうど今読んでいる下りが現下の日本の世相にぴったりだったので現代語訳を載せます。

 すべて物事を観察するに当たって、疑い迷う気持ちがあって内心が静まり治まっていなかったら、外界の事物を明瞭に認めることはできない。そのように、己の思慮がはっきりしない状態では、物事の是非を決めることはできない。

 暗闇の夜道を行く者は、倒木を見て虎が伏しているのかと思い、木の林を眺めて人が大勢いるのかと思うのは、暗さが見定める力を蔽いくらますからである。

 酔っ払いは百歩もある溝を越えてもわずか半歩の狭い小溝だと思い、打つ伏して城門を出ておりながら家の小門だと思うのは、酒が精妙な働きを乱すからである。・・・・・・

 故に山の上から牛を見下ろすと羊のように小さく見えるが、羊を求める者は誰も山を下ってそれを引いていこうとはしない。それは、距離の遠いことがその大きい姿を小さく見せるからである。

 また、山の下から山頂の木を望み見ると、八十尺もの大木も箸のように小さく見えるが、箸を求めるものは誰も山を登ってそれを折り取ろうとはしない。それは山の高いことがその長い姿を短く見せるからである。

 水が動揺してそこに映る影が揺れるときは、誰もその水に姿を写して美醜を見定めることをしないのは、水の状況が正常でなく、揺らいでいるからである。

 また、めくらが空を仰ぎ見て星が見えないといっても、誰もその言葉をもって星の有無を判定しないのは、用いた瞳が正常でなく、くらんでいるからである。

 もしここに人がいて、このような幻惑状態のもとで物事を判定するならば、それは大馬鹿者と言わねばならぬ。

 愚か者が物事の判定をするのは、疑惑した心で疑問を決断するのであるから、その決断は必ず正当であり得ない。いやしくも判断が正当でなかったならば、どうして過失がないと言えようか。

 夏水の河口の南に涓蜀梁という人がいた。その性質は愚鈍で大変臆病であった。月明かりの夜に道を行き、うつむいて地面に映える己の影を見て幽霊がうずくまっていると思い、仰いで自分の髪の毛を見て化け物が立っていると思い、驚き恐れ影を背にして逃げ走り、我が家に帰り着く頃気絶して死んでしまったという。

 全て人が幽霊を認めるのは、心がふいと物に囚われ、あるいは疑惑を懐いているときに、物事を判定することから起こる。

 このような時こそ、人が有を無と誤り、無を有と誤認する元になるときである。

 そのような状態の時に物事を判定するのである。故に湿気に当てられて身体が痛んだのを治すために、さかんに鼓を打って悪魔・妖怪をたたき出そうと努めても、失費があるのみで、少しも病の治ることはない。

 これは夏水の河口に住んでいなくても、愚かな点では全く同じことである。


 我々が見ている物は幽霊なのでしょうか、現実なのでしょうかよくよく吟味する必要があるでしょう。

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