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2012年5月30日 (水)

詩経勝手読み(十四)・・・我行其野

陰暦 四月十日

 我行其野は糟糠の妻が、不実な夫に捨てられたことを嘆く詩とされています。これは第二聯と第三聯に出てくる「爾不我畜」を「爾(なんじ)は我を畜(やしなわ)ず」と読んだことによるものですが、これは少し考えてみるとおかしいことが分かります。

 漢文の語順では、目的語は述語の後に来ます。我は畜の目的語ですので、「爾は我を畜ず」ならば「爾不畜我」になるはずです。

 爾不我畜は、不が否定するのが「我」か「我畜」であるかによって意味が変わります。我であるのなら、「我ではなくて爾が畜(裕福?)」という意味になります。我畜(伴侶?)であるのならば「爾は我畜にならず」になります。どちらかというと後者の方が文章として意味をなしているように思います。

 爾不我畜が「けれどあなたは私と結婚してくれない」であるとすると、この詩の意味は従来言われていたのとはまるっきり変わってきます。

我行其野 私は野を行く
蔽芾其樗 棘だらけの木に蔽われていても
昏姻之故 結婚をするために
言就爾居 あなたの家に身を寄せたいと言った
爾不我畜 けれどあなたは私と結婚してくれない
復我邦家 そして私を実家に帰した

我行其野 私は野を行く
言采其蓫 野草を摘むと言って
昏姻之故 本当は結婚をするために
言就爾宿 あなたの家に身を寄せたいと言った
爾不我畜 けれどあなたは私と結婚してくれない
言歸斯復 そしてまた私に実家に帰れと言った 

我行其野 私は野を行く
言采其葍 ヤマゴボウを摘むためにと言って
不思舊姻 親が決めた結婚相手を忘れ
求爾新特 あなたを新しい結婚相手にしたい
成不以富 結婚できたからと言って裕福になれるわけでなく
亦祇以異 信じる神も異なっているけれど

 この詩は恋に盲目になった若い女性が恋人の家に通い、結婚してくれと迫る歌です。完全に儒教道徳に反する詩ですが、詩経ができたのは儒教が成立する数百年前ですので、詩経は儒教からは自由です。

 まずこの詩の読み手が男性か女性かという問題があります。第三聯に出てくる「特」は雄の牛が原義です。従って、求爾新特はあなたを求めて新しい夫にする、になりますのでこの詩の読み手は女性です。従来の解釈では「女性の方から夫を選ぶなんてけしからん」で思考停止して先に進まなくなってしまうのですが、我々はそんな因習にはとらわれないで先に進みましょう。

 末尾の「成不以富、亦祇以異」は、結婚できても裕福になれないし、氏神も異なっている(異族である)という意味です。この二人の関係が世間から祝福されないものであることが分かります。女が詩を読み、そして男は森の奥に住んでいるので、女の方が中華文明圏の部族で、男は山奥に住む狩猟採集民かもしれません。

 二人の関係は世間からは絶対に許されることがないので、この女性は親から隠れて「草摘みに出かける」「ヤマゴボウを摘んでくる」と嘘をついて密会を重ねているのでしょう。

 男の方は踏ん切りがつかず、第一聯と第二聯で女性を家に戻るように諭しています。けれども恋に盲目になった女性は何度も男の家に押しかけ、何度も結婚を迫ります。第三聯では、親が決めた結婚相手のことなんか知らない、あなたが欲しいと宣言しています。かなり大胆な歌です。

 おそらく殷や西周の時代の中国女性は、後世よりもずっと自由に生きていたのでしょう。万葉集や古今集に不倫の歌まで赤裸々に歌われているのと似ています。詩経には古代人の熱い心が刻み込まれています。決して教訓詩の集成などではありません。自由で、ある意味道徳からは遠い不埒な歌でもあるのです。詩経はクラシックと言うよりは内容はロックです。

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