詩経勝手読み(二四)・・・甫田
陰暦 五月十一日
甫田も信南山同様に秋の実りを祝う詩です。そして私は一歩進んで、これは伝説上の王である帝舜を讃える詩でもあると思います。
舜は伝説上の帝王で、堯から帝位を譲り受けたとされています。冀州(山西省)の生まれで、農業と漁業と陶工の神様です。舜の神話の特徴は、継母と義理の弟によるイジメです。
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陰暦 五月十一日
甫田も信南山同様に秋の実りを祝う詩です。そして私は一歩進んで、これは伝説上の王である帝舜を讃える詩でもあると思います。
舜は伝説上の帝王で、堯から帝位を譲り受けたとされています。冀州(山西省)の生まれで、農業と漁業と陶工の神様です。舜の神話の特徴は、継母と義理の弟によるイジメです。
陰暦 五月八日
信南山は水神禹を讃える祭事詩です。禹は夏王朝の伝説的な始祖です。金文の禹は二匹の蛇が絡まった形象をしています。禹には休みなく働いたために体が磨り減ってしまったという伝説があり、これはおそらく禹が蛇の姿をした神だった名残でしょう。
信南山の第一聯には、「維禹甸之」という不思議な記述がありますが、これはおそらく「維禹匐之」であり綱のように長い体の禹が地面を腹ばうという意味であり、禹が蛇神であったことを意味する記述です。
陰暦 五月四日
楚茨は盛大なお祭りを歌った詩です。社会が安定していた西周中期の詩とされていますが、私の分析では小雅の谷風は東夷の詩であるので、東夷のお祭りを詠んだ詩でしょう。
家族で集まってワイワイ騒いで酒を飲んでいる所など、どことなく日本のお祭りによく似ています。長いけれど、愉快で楽しい詩です。春秋時代のお祭りの喧噪が伝わってくるようです。
陰暦 五月一日
鼓鍾は淮河が出てくることから、南方の諸侯の死を悼む挽歌とされてきました。私もその説に賛成です。
私の推測では、小雅は国風の続きであり、秦よりも西方の詩、もしくは東夷の詩を集めたものと考えられます。詩経を編纂した漢代の学者はこれら周辺地域の文化を良く理解していなかったため、小雅の詩をどの国の詩として分類すればよいのか分からなかったのでしょう。
四月二十八日
待望のガンダムUC第5巻が届きました。分かりにくかった第4巻とは打って変わり、愛と熱血で、悪者どもがぶっ殺されて、スカッとしました。やはり王道的展開はよいね。
ミネバたんかわいいよミネバたん(´Д`;)ハアハア
バナージはミネバ様のために犬のごとく働け!
リディが振られて二人を逆恨みするのは分かるのだが、悪役としては弱いと思う(´ω`)
無將大車は素直に読めば「将軍(主人)が乗っていない戦車」となります。無人の戦車とは何でしょうか。
春秋には死者が操る戦車の有名な話があります。一種の怪談です。
陰暦 四月二十七日
小明は西方に駐屯した東国の卿(貴族)が故郷の人を懐かしむ詩です。第四聯と第五聯には手紙と推測される文書であり、持って回った言い方の手紙なので分かりにくいのですが、「あなたの位を安定させたい」と読めることから、この詩の詠み手は武将もしくは外交官として西国(おそらく晋)に駐屯してもう何年も祖国に帰っておらず、故郷の主君に、役目を解いてくれるよう遠回しに頼んだ詩ではないかと考えられます。
陰暦 四月二十四日
四月は河南省を発祥地とし、殷の時代から続く杞という古い小国が、大飢饉によって生活ができなくなり、大国の晋の支援によって北の山東省に遷都したことを表す詩です。
この事件は紀元前544年、東周の景王元年、魯の襄公二九年にあたります。従来の説では詩経に収録されている詩の下限は秦風・黄鳥で紀元前621年とされていますが、詩経の詩が詠まれた時期はほとんど不明です。
陰暦 四月二十日
大東は東国の民が西周の搾取を告発する歌・・・と見せかけて、七夕の夜空を歌った雄大な歌です。
陰暦 四月十七日
節南山十篇は難解であるので飛ばして谷風十篇を先に分析します。
谷風は長年連れ添った夫に捨てられた老婦が夫の不実をなじる詩とされてきました。けれども、この詩のどこを探しても、捨てたのが男で捨てられたのが女だとは書いてありません。
酒を飲めば酩酊して本能が開放されてストレス解消になるので酒を飲む理由は分かる。酒と麻薬を同列には扱いたくないけれど、麻薬も同じ理由だろう。性欲は種保存の欲求に根ざしているので、人間がエッチなことを好むのはごく自然だ。
このように嗜好品にはそれなりに生物の根源的欲求に根拠があると考えられるが、煙草だけはどういう欲求に根ざしているのか分からなかった。
私は喉が弱いので煙草は吸わないが、煙草の煙を吸うのは嫌いではなく、焚き火の煙の匂いをかぐと何となく安心する気がする。そこでふと思った。
人類は種の発生から十万年間、原人時代も入れれば50万年以上焚き火をしながら生活してきた。人間の生活の場には常に煙があった。その間に淘汰が生じて、火や煙を「良い物」と感じる遺伝子を持つ人間が残ったのではないかと。
面白いことに、煙草というのは唯一犯罪を起こさない嗜好品と言われている。酒を飲んで暴れる人、麻薬が欲しくて犯罪で金を稼ぐ人はいるけれど、煙草を吸えなくてもイライラするくらいで、犯罪を起こしてまで煙草を手に入れようという人はいない。
ということは煙を吸いたいという欲求は、本能開放系の欲求ではなくて、むしろ本能抑制系の脳に組み込まれたメカニズムなのではないかと。
煙や火は危険なので、普通の生物は逃げる。人類はどこかで煙を吸ったり火を見ても逆に安心する(本能が抑制される)遺伝子を手に入れたので、煙や火を怖がらなくなった。
煙草を吸えなくなっても、その本能を抑制する遺伝子が働かなくなって、普通の状態に戻るだけなので、犯罪には結びつかないのだろう。そういえば、禁煙に成功した人は食欲が増進して太ったり、性に対する興味が回復したりするので、これは私の推測の正しさを証明してはいないだろうか。
他の生物には猛毒のダイオキシンが人間にはほとんど無害なのも、人間が各種の化学物質に非常に強く、肝臓の解毒能力が優れているのも、人間が焚き火に適応した結果だろう。煙草を好むのもそうだと考えられる。
それと人類の死因に癌が多いのは、人類が火を使うために炭素を大量に吸引するからであり、産業革命以来急激に人間以外の生物が数を減らしたのは、大量に撒き散らされた未燃カーボン(要するに煤)を解毒する能力を持っていなかったからだろう。
人間は煙に強いので、煙草を吸っても大して健康には影響しない。
禁煙運動が広がっているのは、身近で火を焚くことがなくなり、煙に慣れていない人が増えたからと思われる。
煙への適応は、人類の進化にかなり影響しているのではないだろうか。
陰暦 四月十三日
詩経小雅の鹿鳴、南有嘉魚、鴻雁の30篇を分析したところ、内13篇は従来の解釈が本来の意味からかけ離れていることが分かりました。他にも数編、解釈の大幅変更が適切な詩があります。小雅74篇の内半分は解釈の変更が必要な可能性があります。
詩経の詩は全部で305篇あります。成立が新しいとされている国風は解釈の誤りが少ないとしても、3分の1の詩は解釈の変更が必要ではないでしょうか。
陰暦 四月十二日
フジテレビの視聴率が下がったのは、チャンネル番号が一番最後になったから。テレ東よりも後にしたから。漫然とチャンネルを回して、気になった番組を見る、という行動をする視聴者を逃しているから。
でも8番に拘ったのはフジテレビなので自業自得。
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