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2012年6月13日 (水)

詩経勝手読み(十八)・・・四月

陰暦 四月二十四日

 四月は河南省を発祥地とし、殷の時代から続く杞という古い小国が、大飢饉によって生活ができなくなり、大国の晋の支援によって北の山東省に遷都したことを表す詩です。

 この事件は紀元前544年、東周の景王元年、魯の襄公二九年にあたります。従来の説では詩経に収録されている詩の下限は秦風・黄鳥で紀元前621年とされていますが、詩経の詩が詠まれた時期はほとんど不明です。

 孔子の生誕は紀元前551年で、孔子は論語の中で詩経を引用していますので、この時代には詩経の原型はできていたと考えられます。しかし孔子が引用しているのは28カ所で、詩経は302篇ですので、孔子の時代に詩経が完成していたといいきることはできません。私は詩経には春秋末期の作品も含まれていると推測しています。

 何故詠み手が杞の出身であるのかというと、第六聯で「滔滔江漢」とあります。江漢は長江や淮河などの南のゆったりとした川を表す語です。第七聯の江漢は肯定的な意味合いを持っているので、彼が南国の出身であることが分かります。

 河南省(当時としては南国)には禹の子孫が封じられた杞という古い国がありました。「南国之紀」が「南国之杞」だとすると、この詠み手は杞の出身と推測できます。

 第一聯から第三聯が天候不順を歌っていることはすぐに分かります。第四聯は山の手入れがされていないために非常食の木の実も採れないと嘆いています。第五聯は川の水が干上がって、穀物が収穫できないことを嘆いています。天候不順と準備不足によって、飢饉が発生したことが分かります。

 春秋左氏伝によると、魯の襄公二九年(紀元前544年)に南方で飢饉があり鄭では公子子皮が、自家の穀物を無償で庶民に分け与えて救ったとあります。宋も公の命令によって卿が庶民に無償で穀物を提供しました。

 その記事に続いて、大国の晋が杞のために城を築いたという記録があります。晋の平公の母親は杞の公女でした。常識的に考えて、南国で飢饉が発生したため、杞の民が難民となり、彼等のために晋が新しい土地を用意してやったと読めます。杞はこの時に河南省から山東省に移住したとされています。

 そして春秋左氏伝では魯が杞のことを非難しています。飢饉で苦しむ杞を非難するなんて魯も薄情だと私も最初は思いましたが、鄭と宋は蓄えがあったために飢饉を乗り切ることができました。けれども杞には何の蓄えもなく、晋の権威を利用し、周辺国に助けてもらうことで命をつなぎました。

 杞は東夷の仲間であると魯は非難しているので、魯や衛と杞は敵対関係にあったのでしょう。それなにに困ったときだけ助けを求める杞に腹を立てたのではないかと考えられます。

四月維夏 四月は春と夏をつなぐ
六月徂暑 六月は暑さが去ってしまった(冷夏?)
先祖匪人 死せる先祖よ
胡寧忍予 なぜ私に何もしてくれないのか

秋日淒淒 秋の日は弱々しく
百卉具腓 草はしぼむ
亂離瘼矣 木は葉を散らす
爰其適歸 猿もいなくなってしまった

冬日烈烈 冬は厳しく
飄風發發 つむじ風が舞う
民莫不穀 他国は十分な食糧があるのに
我獨何害 なぜ我らだけが苦しまねばならないのか

山有嘉卉 山には木の実がある
侯栗侯梅 栗や梅が
廢為殘賊 しかし山も手入れされていないため、木の実も乏しい
莫知其尤 非常食として優れていることを人々は知らない

相彼泉水 この湧き水を見よ
載清載濁 澄んだり濁ったりして流れが安定しない
我曰溝渦 私は渦水と用水路に訴えたい(渦水=淮河の支流) 
曷云能穀 これでどうやって作物を作れと言うのか

滔滔江漢 滔々と流れる淮河
南國之杞 南国の杞
盡瘁以仕 懸命に働いてきたが
寧莫我有 無駄であり、我らには蓄えがない

匪鷻匪鳶 ウズラやトンビではないので
翰飛戾天 飛んで天に戻ることもできない
匪鱣匪鮪 サメやウツボではないので
潛逃于淵 水の底に隠れることもできない

山有蕨薇 山にはワラビやイバラしか残されていない
隰有杞桋 沼地には柳や桋しかない(食料にならない)
君子作歌 杞の人はこの歌を作り
維以告哀 苦しみを訴えます

 おそらくこの詩は、杞公、もしくは杞の宰相が、飢饉で杞が全滅の危機にあることを、晋を初めとする諸国に訴えた手紙です。杞の使者はこの詩を諸国の宮廷で歌って救援を求めたのでしょう。

 この作戦は成功し、母親が杞の出身である晋公は、周辺国に命じて杞を助けさせました。けれども杞の評判はその後も良くなかったようで、周辺国に圧迫されて遷都を繰り返しています。

 列子に杞憂という故事があります。杞の人が「天を支える柱が折れて、天が落ちてくるのではないか」と心配して夜も眠れないという話で取り越し苦労を意味するようになりました。

 同じく杞の人が夜空を見上げて歩いていて落とし穴にはまるという故事もあります。

 杞を襲った飢饉を背景とすると、これら故事も少し意味合いが異なってきます。杞は殷の青銅器にも記録が残る古い国でした。そして杞は東夷に属していました。四月の詩にはサメやウツボといった海の生物が出てきます。古代中国では珍しいことです。そして杞は食糧を充分に蓄えていませんでした。このような小国であるにもかかわらず、晋と強いパイプを持っていました。

 これらを総合すると、杞は海洋民族で、漁撈・真珠取り・交易によって暮らしていたと考えられないでしょうか。杞と空が関連づけられているのは、彼等が海洋民であり、航海のために星座に詳しかったことを意味するのでしょう。そうすると、四月の前の詩の大東が夏の夜空を歌っていることもすんなりと理解できます。

 「星座で読み解く日本神話」によると、日本や南方の海洋民族は北極星を天を支える柱と見なす神話を共通して持っているとあります。これは杞憂と繋がります。

 魯のような農耕民には、農業もしないで、交易で儲けている杞が胡散臭く思えたのでしょう。そして、これはちょっと飛躍しすぎかもしれませんが、日本の紀氏(紀州を本拠地とする古族)は、古代中国の杞の末裔ではないかと思うのです。

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