旧暦2033年問題
旧暦の月が決められなくなる2033年問題というのがあります。
これは日本が民間で使用している天保暦が太陰太陽暦として精確すぎるゆえに生じる問題です。最近NHKが旧暦を流行らそうとしているのは、この問題に世間の注目を集めるための下準備ではないかと私は考えています。
2033年は次の式年遷宮の年なので、2014年までにこの問題に決着をつける必要があるからです。
日 | 月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 |
---|---|---|---|---|---|---|
1 | 2 | 3 | 4 | 5 | ||
6 | 7 | 8 | 9 | 10 | 11 | 12 |
13 | 14 | 15 | 16 | 17 | 18 | 19 |
20 | 21 | 22 | 23 | 24 | 25 | 26 |
27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
« 2012年8月 | トップページ | 2012年10月 »
旧暦の月が決められなくなる2033年問題というのがあります。
これは日本が民間で使用している天保暦が太陰太陽暦として精確すぎるゆえに生じる問題です。最近NHKが旧暦を流行らそうとしているのは、この問題に世間の注目を集めるための下準備ではないかと私は考えています。
2033年は次の式年遷宮の年なので、2014年までにこの問題に決着をつける必要があるからです。
野有死麕と何彼襛矣は一組の詩で、春秋左氏伝きっての迷惑カップルを歌った詩です。人物を特定するヒントは何彼襛矣にありますので、先にこちらを解説します。
何彼襛矣は従来から周王の娘と、斉公もしくは斉の太子の結婚を歌った詩とされてきました。何彼襛矣の第三聯に「齊侯之子、平王之孫」とあるからです。
江有汜は女に捨てられた男の歌とされていますが、子は男性につく敬称なので、男に捨てられた女の歌と解釈するべきでしょう。
汜は本流から分離して再び合流する川筋で、渚には波が寄せては返ってきます。両方とも「帰ってくる」ことの縁語です。男の寵愛を失った女性が、再び男の愛が戻ってくるようにとこの二つの文字に気持ちを込めているのです。
映画の「天地明察」を見ました。貞享暦を作った安井算哲(渋川春海)とその妻えんの夫婦愛を描いた作品です。
安井算哲は多彩な人物で、囲碁の家元安井家の息子でしたが、跡取りとはならず天体観測や算学、神道の研究などに没頭していました。かといって囲碁の才能がなかったわけではなく、史上最強の棋士本因坊道策に先番でしたので、日本で二番手の打ち手だったことになります。
日本は奈良時代以来、中国から輸入した宣命暦を使っていました。宣命暦はユリウス暦よりは正確でしたが、それでも800年使用する間に2日程度のずれが生じていました。渋川春海は更に正確な授時暦を採用すべきことを天体観測によって証明し、さらに、経度差による時差を東洋で初めて発見し、授時暦に日本と中国の経度差補正を加えた大和暦(採用されたときの元号を取って貞享暦と呼ばれる)を開発しました。
理論計算と綿密な観測によって日本独自の暦を作り出した安井算哲は日本最初の科学者と言えるでしょう。
妻のえんはどうやら架空の人物らしいのですが、若い二人が支え合う姿は爽やかな感動を与えてくれます。
完璧な時代考証も見所です。北極星の観測隊が、歩測をするために変な歩き方をするところや、宿屋や茶屋、料理、寺子屋、算額など非常に正確に再現されており、歴史オタクにはたまりません。
中華料理を食卓に並べる水戸光圀は傑作でした。水戸光圀は食通で、肉料理と中華料理が大好きでした。映画にはローストチキン・餃子・肉まん・ラーメン・ワインが登場します。これはきちんと史実に則っています。水戸光圀は生類憐れみの令が出ていたときにも、堂々とビーフステーキに舌鼓を打っていた筋金入りの食い道楽です。
ただ一つ時代考証から外れていたのはお公家がお歯黒をしていないところですが、これは気持ちが悪いので敢えて再現しなかったのだと思います。
史実は半分くらいでだいぶ創作が入っていると思いますが、あまり気にすることはないと思います。非常によい作品でした、お薦めです。「おおかみこどもの雨と雪」「あなたへ」「天地明察」今年の邦画は豊作です。
采蘋は一見すると、水草を摘んで煮込んでご先祖様にお供えをしましょうというただのお祭りの詩のようですが、夏姫の伝説を背景にして分析すると意味合いが変わってきます。
屈巫の亡命から20年後、屈巫が呉に赴いてから約10年後?の紀元前570年、呉と楚は激突します。おそらくこの頃夏姫は50歳ぐらいで、屈巫は既に死んでいたかもしれません。
召南の冒頭の四詩、鵲巢、采蘩、草蟲、采蘋はただの恋愛詩、もしくは予祝詞として解釈することも可能ですが、夏姫の伝説と関連づけて理解することも可能です。
もともとは夏姫の伝説とは別個に生み出された一般的な詩だったのでしょうが、夏姫の詩のあとにこれらを並べたのは、詩経の編纂者がこの詩が夏姫の伝説に相応しい詩であると考えたからでしょう。
詩経国風の解明も陳風までたどり着きました。残すところあと二十数篇。
陳というのは現在の河南省南部にあったとされる国で、南国の楚と境を接していました。
しかし私が分析したところ、陳風は殷(商)の遺民が建てたとされる国、宋の祭事詩です。陳風に出てくる宛丘とは新鄭の宛陵と考えられます。鄭は殷の都の上に町を作りました。
詳しくはいずれ詩経の本を出すのでそれに譲るとして、その陳風には鷺の羽根を持って舞い踊るという詩があります。殷墟からは鳥を形取った青銅器が多数出土しており、殷は鳥のトーテムを信じていたのではないかという説があります。
また衡門(横木をさした門)の周りで若い男女が歌垣をする詩もあり、前の詩が鳥に関することを歌っていたことと合わせ考えると、これは日本の鳥居に似たモニュメントを中心に、盆踊りをするような祭を詠んだ詩と考えられます。
白鷺の踊りなど、山陰の祭を彷彿とさせます。
陳風は古代の殷と日本の関連を窺わせる興味深い編です。
汝墳は恋愛詩といわれています。未見君子〜(あなたにお会いできなくて〜)、既見君子〜(あなたにお会いできたので〜)が恋愛詩の定型句だからです。
汝墳が恋愛詩であることに私も異論はありませんが、一つ前の漢廣が夏姫を歌った詩であったことを頭に入れて読み直すと、更に理解が深まります。
そもそも夏姫の伝説にはおかしいところがあります。十歳で実の兄と密通したとか、子供の夏徴舒が成人してから陳公と密通し、さらに夏徴舒が楚に殺された十数年後に屈巫と結婚し、子供まで産んでいます。夏徴舒が夏姫の実の子であったとするとこの時に夏姫は五十歳くらいであったはずで、いくら何でも高齢出産過ぎます。
この齟齬は夏徴舒を夏姫の実の息子だとする前提が誤っていることを意味しています。夏徴舒は夏御叔の前妻の子供であったとすれば齟齬はなくなります。
漢廣は伝説の美女夏姫とその最後の夫である屈巫を歌った詩です。何故夏姫の詩が江南の歌を収録した周南に収められているのでしょうか。
夏姫は鄭の公女でした。鄭は西周時代末に周王朝から分家した国で、東周時代には王を補佐する役割を果たしていた名門です。夏姫は鄭の公女で、春秋時代中期紀元前七世紀末から六世紀前半頃の人物です。
よく経済学の本などに「昔は物々交換の世界だった」と書かれていることが多いですが、さて物々交換の世界とはどのような世界だったのでしょうか。
日本などは宋銭が普及する鎌倉時代後期までは、貨幣がなかったので、歴史学の本でも物々交換の世界、米や布が通貨の変わりをしていたとまことしやかに書いてあります。
小雅魚藻の後半は星座の詩でした。最後を飾る何草不黃は何を歌った詩でしょうか。空に輝く太陽と月です。
何草不黃の第一聯から第三聯だけを読むと兵隊さんが苦しい遠征に出かける防人歌のようにも見えますが、それでは第四聯が理解できません。また漢文は能動と受身の区別が付きにくいのですが、この詩を素直に読むと、征夫は実は兵隊ではなくて、兵を率いる指揮官のように読めます。
全然人気がなくて、それが返って注目を集めている大河ドラマの平清盛。私も「やさしい易」の執筆や仕事が忙しくて見ていないのですが、dragon_suplexさんとの会話で話は追っています。
それで会話の中で、平家がなんであそこまで強くなれたのかやっぱりよく分からないね、白河院の御落胤というだけでは説明が付かないとなったのですが、今日理由の一つを思いつきました。
瓠葉と苕之華は一見しただけれでは深い意味がなさそうな詩に見えます。瓠葉は兎の丸焼きを肴にしてお酒を飲みましょうと言うだけの詩ですし、苕之華は貧乏を嘆く詩です。
しかし間に挟まれている漸漸之石が晩秋の星空を詠んだ詩であるとすると、二つの詩の意味合いも変わってきます。
最近のコメント