詩経勝手読み(四三)・・・漢廣その一
漢廣は伝説の美女夏姫とその最後の夫である屈巫を歌った詩です。何故夏姫の詩が江南の歌を収録した周南に収められているのでしょうか。
夏姫は鄭の公女でした。鄭は西周時代末に周王朝から分家した国で、東周時代には王を補佐する役割を果たしていた名門です。夏姫は鄭の公女で、春秋時代中期紀元前七世紀末から六世紀前半頃の人物です。
夏姫の生涯については、史実と伝説と儒教の女性蔑視がない交ぜになって実態が分からなくなっています。伝説によると、夏姫は少女の頃から美貌の誉れが高く、実の兄との醜聞が持ち上がったため、鄭公は家の恥になるよりはと夏姫を早々に南国の陳の夏御叔(陳公室の分家で大臣だった)に嫁に出しました。
陳は現在の湖北省あたりにあった国です。陳は長江の支流の漢水のほとりにありました。このあたりまでは中原の文化圏でしたが、陳から南は長江文明の楚の版図でした。陳は楚と対峙する最前線にあった国でした。
夏姫が息子の夏徴舒を生むとまもなく夫は死んでしまいました。大黒柱を失った夏家は急速に没落し、夏姫は息子の夏徴舒を抱えて途方に暮れることになりました。そこで夏姫は陳公に援助を頼んだのですが、陳公は条件として夏姫を妾にしました。
陳公の妾となった夏姫の引き立てで、息子の夏徴舒は出世します。しかし、目の前で母と自分を侮辱されたことを怨みに思い、陳公を殺して自分が陳公に立ちました。
このように陳が乱れるのを見て、楚の荘王は征伐に立って陳を滅ぼしてしまいます。夏徴舒は自殺しました。夏姫は戦利品として荘王の後宮に納れられるところでしたが、大臣が「そのようなことをしたら、女を奪うために戦争をしたみたいで、王の評判が下がります」と諫めたので、夏姫を大臣の襄老に与えました。
その襄老も戦死してしまいました。これで夏姫は関わった男性をことごとく死なせてしまったことになります。今度は楚の外交官であった屈巫が夏姫に目を付けます。政略結婚に人生を翻弄された夏姫も今回はまんざらでもなかったらしく、屈巫と示し合わせて楚を脱出して晋に逃げました。
楚王は荘王から共王に代替わりしていましたが、共王は怒り狂って屈巫臣の一族を皆殺しにします。
屈巫は復讐を誓い、新興国の呉を支援することで楚を倒そうとします。呉は長江の河口部の国でした。屈巫は息子の屈狐庸を呉に送り込み、最先端の軍事技術を呉に教えました。これによって強力になった呉は十五年後に鄢陵の戦いで楚を大いに破り、楚は滅亡の淵に立たされました。春秋五覇の一人と讃えられた荘王の死からたった二十年、急転直下の転落でした。
これが夏姫の伝説です。夏姫の生涯は中原諸国と楚の対立が深く関わっています。楚に対抗することが夏姫の人生のテーマになっていることが分かります。夏姫は果たして運命に翻弄されて、エロオヤジどもに弄ばれて、あっちにこっちに流されるだけのか弱い女性だったのでしょうか。
そこで儒教による女性への偏見にとらわれないで、夏姫の生涯を見直してみましょう。
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