詩経勝手読み(五九)・・・旄丘
詩経の邶風、鄘風、衛風は遊牧民の狄の中原侵入による衛滅亡と、覇者斉の桓公を中心とする諸侯の支援による衛復活の叙事詩です。雄大なおかつ人間心理を抉るような皮肉あり、古代中国にもホメロスに匹敵する詩人がいたことを窺わせる力作です。
邶風、鄘風、衛風は元々全て衛の詩とされていました。三分割されたのは、衛のみが三十数編になってはバランスが悪いため、便宜的に分割されただけとされています。そして、古来よりこの中には衛滅亡と復興の詩が含まれているとされてきました。
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詩経の邶風、鄘風、衛風は遊牧民の狄の中原侵入による衛滅亡と、覇者斉の桓公を中心とする諸侯の支援による衛復活の叙事詩です。雄大なおかつ人間心理を抉るような皮肉あり、古代中国にもホメロスに匹敵する詩人がいたことを窺わせる力作です。
邶風、鄘風、衛風は元々全て衛の詩とされていました。三分割されたのは、衛のみが三十数編になってはバランスが悪いため、便宜的に分割されただけとされています。そして、古来よりこの中には衛滅亡と復興の詩が含まれているとされてきました。
谷風は詩経の中でも二番目に長い詩です。長くてヒントが多いので分かりやすいかと思いきや、この詩も古来より意味不明とされてきました。どうやら詠み手は家を追い出されたらしく、新婚という句がキーワードのようなので、男が若い後妻に入れあげて、ないがしろにされた糟糠の妻が夫を難詰した詩などと解釈されてきました。
しかしそれは後世の男尊女卑による誤解です。この詩は追い出された人が追い出した人に向かって叫ぶ形式となっています。新婚という句から夫婦が連想されますが、そうするといくつか不審な点があります。
犬戎に滅ぼされた衛が国を再建できたのは、宣姜が持つ華麗な血縁関係のおかげでした。
懿公は戦死したため、残された公子の申が衛公として立ち、難民をまとめて黄河を渡って避難し、諸侯の助けを得て曹の地に衛を再建しました。これが戴公です。彼もまた宣姜の息子です。
凱風には従来から宣姜の七子を歌った詩という説があります。春秋で七人兄弟と言えば宣姜を意味するからです。再建された衛には浚という邑が含まれていたからと言うのもあるでしょう。
衛は曹の地に再建されましたが、手狭だったか、防衛に適していなかったからか、約十年後に少し東の楚丘という土地に再び移転します。この時にも斉の桓公が援助してくれました。棘、棘薪というのはおそらく楚丘のことでしょう。
まずどう考えてもおかしいのが、宣公と宣姜の息子の寿が、敵であるはずの急子を助けようとしている点です。しかも宣公は寿を左公子に預けていました。そして右公子は急子を養育していました。
名前から考えて、左公子と右公子は同じ一族でしょう。兄弟かもしれません。同じ兄弟に、元の太子急子と宣姜の息子寿を預けるでしょうか。
邶風の詩は紀元前660年に起きた衛の滅亡と再建の物語を歌っているという説が従来からあり、私もそれに大筋で賛成です。
衛は現在の河南省北部、安陽付近にあった国です。安陽には殷が末期に都とした朝歌があったとされています。周の武王は殷の紂王を滅ぼした後、紂王の王子武庚に殷を任せますが、武庚は叛乱を起こし、周は東方を放棄する手前まで追い込まれます。これを三監の乱と呼びます。
騶虞は従来より意味不明とされている詩です。しかし、何彼襛矣と野有死麕が襄公と文姜の不義密通を告発した詩であることが分かった今、騶虞の意味も初めて明らかになります。
騶とは馬車に乗る人です。虞とは葬儀の仕上げのことで、親族が死者の埋葬を終えて家に帰り、死者の霊を安んずるために行う儀式です。即ち騶虞とは馬車に乗った死者が埋葬のために家に帰るという意味になり、斉の襄公に殺された桓公の悲しい帰国であることが分かります。
何彼襛矣
何彼襛矣 厚手の美しい花嫁衣装
唐棣之華 しかしそれは空しい花
曷不肅雝 どうして楽しそうではないの
王姬之車 王女様の車は
何彼襛矣 厚手の美しい花嫁衣装
華如桃李 桃やスモモの花のような可憐な方
平王之孫 平王のお孫様と
齊侯之子 斉公のお子様のご結婚
其釣維何 そこで何を釣っていらっしゃるのですか
維絲伊緡 糸に引っかかった
齊侯之子 斉公のお子様は
平王之孫 平王のお孫様を(釣り上げた)
春秋時代の主役は初期が鄭、その後数十年間斉が主役に躍り出て、覇者文公重耳の登場後は晋、後期は晋の貴族です。何彼襛矣は斉勃興のきっかけとなった政略結婚の詩です。
斉は西周中期に一度周王に滅ぼされています。その後複数の系統が濫立して斉は混乱しますが、荘公(在位:〜紀元前731年)の時代に統一に成功します。荘公は平王と同世代です。
さてこれが春秋左氏伝から読み取れる西周滅亡と平王擁立の顚末ですが、よくよく調べてみるといくつかおかしな点があります。
平王は太子だったけれど幽王が褒姒に迷ったために廃太子されたと言うことになっています。けれども平王の諱は宣臼で、褒姒の息子の名は伯服です。伯は嫡出子の長男に付けられる文字です。例え末っ子でも家督を継ぐことが決まっていれば名前に伯がつきます。
褒姒は文王の正妃だった太姒と同じ部族の出身と考えられます。春秋左氏伝には遊牧民を蔑視する思想があるのですが、周王朝は遊牧民出身で、遊牧民と通婚しており、遊牧民の娘だから側室と言うことはありませんでした。
これらのことから、伯服は最初から太子で、褒姒も最初から正妃であった可能性が高いです。
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