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2012年10月17日 (水)

詩経勝手読み(五四)・・・擊鼓その一

 邶風の詩は紀元前660年に起きた衛の滅亡と再建の物語を歌っているという説が従来からあり、私もそれに大筋で賛成です。

 衛は現在の河南省北部、安陽付近にあった国です。安陽には殷が末期に都とした朝歌があったとされています。周の武王は殷の紂王を滅ぼした後、紂王の王子武庚に殷を任せますが、武庚は叛乱を起こし、周は東方を放棄する手前まで追い込まれます。これを三監の乱と呼びます。

 周公と召公の尽力によって反乱を抑え込んだ周は、殷の領土を二つに分け、黄河の北側を武王の弟である康叔封に与えました。これが衛です。南側は紂王の兄微子啓に与えました。これが宋です。

衛は武王の弟を始祖に持つ由緒正しい国でした。中原の中心に位置した衛は富裕を誇りました。

 繁栄を謳歌していた衛に突如として災難が押し寄せます。紀元前660年、遊牧民の犬戎が衛に攻め込み、衛は滅ぼされてしまいました。百年前に西周を滅ぼした犬戎は中原に進出を始めたことがわかります。

 衛が呆気なく滅ぼされたのは、度重なる内紛で弱体化していたからでした。衛の宣公は太子急子の嫁として斉の公女宣姜を迎えますが、宣姜があまりに美しかったため、横取りして自分の妻としてしまいました。そして宣姜との間に子供を二人(寿と朔)を作りました。

 宣公と宣姜は寿に国を継がせたいと思い、今や邪魔になった急子を殺そうと考えます。急子を使者に立てて、山賊に襲わせる手はずを整えました。しかし寿は兄思いであったため、急子の身代わりになって殺されます。寿が身代わりとして殺されたのを知った急子もまた寿を追いかけて山賊に殺されてしまいます。

 やがて朔が恵公として立ちます。しかし急子と寿を養育していた左公子、右公子は恵公に叛乱し、宣公庶子の黔牟を立てました。恵公は母の故郷斉へ逃げました。その当時の斉公はかの有名な襄公です。

 襄公は恵公を押し立てて衛に攻め込みます。左公子と右公子は殺され、黔牟は周(洛陽)に逃げました。恵公は更に燕(南燕)とともに周を攻め、周の恵王と黔牟をともに追放し、王子頽(たい)を周王に立てまます。

 衛の継承争いはついに周王の継承紛争にまで飛び火してしまいました。恵王は数年後に鄭によって復位します。王子頽は殺されました。

 衛の恵公は死去し、子の赤が衛公として立ちます。懿公です。懿公は鳥を好み鶏や鶴に爵位や車を与え、人間よりも大事に扱いました。まるで犬公方です。そのため犬戎が攻めてきた時に衛の人達は懿公に従わず、衛は呆気なく滅びてしまいました。

 さて、宣姜はどうなったのでしょうか。宣公が亡くなったときに宣姜はまだ若かったため、衛の貴族は宣公の庶子昭伯と再婚するよう勧めました。斉とのつながりを失いたくなかったのでしょう。しかし義理とは言え息子との結婚を宣姜は一度は拒否しますが、貴族たちが強いて勧めたので再婚し、昭伯との間に五人の子供を持ちました。

 それぞれ斉子、戴公、文公、宋桓公夫人、許穆公夫人です。斉子は事績が残っていないので早世したと考えられ、戴公は衛公となって犬戎に滅ぼされた衛を再建。その後戴公はすぐに死去してしまいますので、文公が衛の再建を受け継ぎました。文公は名君として記録が残っています。宋桓公夫人は夫の桓公に訴えて、国を失った衛の人々を保護してもらいました。許穆公夫人も衛に送った歌が詩経に残っています。

 宣公と宣姜の間の子供恵公は不肖の息子でしたが、宣姜と昭伯の間はの子供は立派な人物ばかりでした。

 宣姜は衛で都合七人の子供を作り、斉子以外の六人はいずれも事績が歴史に記録されています。非常に珍しいことです。宣姜の子供たちは当時から有名だったのでしょう。

 さて、これが春秋左氏伝や史記に記録されている衛滅亡と再建の顚末ですが、いつものように注意深くこれを分析し直してみましょう。

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