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2012年10月20日 (土)

詩経勝手読み(五五)・・・擊鼓その二

 まずどう考えてもおかしいのが、宣公と宣姜の息子の寿が、敵であるはずの急子を助けようとしている点です。しかも宣公は寿を左公子に預けていました。そして右公子は急子を養育していました。

 名前から考えて、左公子と右公子は同じ一族でしょう。兄弟かもしれません。同じ兄弟に、元の太子急子と宣姜の息子寿を預けるでしょうか。

 春秋左氏伝では恵公朔は寿の弟と言うことになっています。しかし朔とは「はじめ、一日」という意味ですので、朔は宣姜の長男であるはずです。恵公の名前から考えても、寿が宣姜の子供というのは矛盾しています。

 ともに心中したつながりの深さから推測するに急子と寿は同母兄弟であったと考えるべきです。母は宣姜に宣公を横取りされて自殺した夷姜でしょう。

 衛の系図は非常に錯綜しているのですが、鄭には夷姜と宣姜の系統の争いとは別に、鄭と斉の争いも絡んでいます。

 系図をご覧ください。
Ei_senkyo_5


 衛・鄭・周の三カ国は紀元前八世紀後半から紀元前七世紀前半にかけて、お互いの継承争いに介入し合いました。片方がAという君主を掲げたら、片方がそれに敵対するBという候補者を掲げる、血縁関係がある諸侯が付いて戦うと言うことを繰り返した結果、周王朝の支配は弱まりました。

 ちょうど南北朝や応仁の乱の争いに似ています。

 この二つの陣営の争いのバックには鄭と斉がいます。東周王朝の柱石であった鄭と、東の新興勢力斉の争いです。鄭は陳公室を通じて衛と血縁関係がありました。衛は鄭と斉の代理戦争の舞台となってしまったのです。

 五十年もの間、内部紛争を続けた衛はガタガタになってしまい、遊牧民に呆気なく滅ぼされました。

 懿公は鳥好きの暗愚な君主と言うことにされていますが、衛が滅びる際には勇敢に戦っており、親族や家臣に対して与えた指示も見事です。とても鳥にかまけていただけの君主とは思えません。おそらく往年の内部争いの怨恨が衛の宮廷内では渦巻いており、懿公は衛の力の半分しか結集できなかったのでしょう。

 衛が滅びた際に、首都の衛(朝歌?)には730人しか残っていませんでした。しかし周辺の共と媵の民を加えて5千人になったと春秋左氏伝にはあります。懿公の反対陣営は衛から退去し、犬戎との戦いには加わっていなかったのでしょう。

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