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2012年10月 3日 (水)

詩経勝手読み(五十)・・・何彼襛矣・野有死麕その二

 さてこれが春秋左氏伝から読み取れる西周滅亡と平王擁立の顚末ですが、よくよく調べてみるといくつかおかしな点があります。

 平王は太子だったけれど幽王が褒姒に迷ったために廃太子されたと言うことになっています。けれども平王の諱は宣臼で、褒姒の息子の名は伯服です。伯は嫡出子の長男に付けられる文字です。例え末っ子でも家督を継ぐことが決まっていれば名前に伯がつきます。

 褒姒は文王の正妃だった太姒と同じ部族の出身と考えられます。春秋左氏伝には遊牧民を蔑視する思想があるのですが、周王朝は遊牧民出身で、遊牧民と通婚しており、遊牧民の娘だから側室と言うことはありませんでした。

 これらのことから、伯服は最初から太子で、褒姒も最初から正妃であった可能性が高いです。

周王朝系図(PDF)

 平王はどうでしょうか。宣臼という諱には二男・三男を意味する仲・孟・叔もなにも付いていません。従って宣臼は全くの庶出子で王位を継ぐ可能性は最初からなかった可能性が高いです。

 ここで気になるのは平王の母親が申の出身だったことです。東周建国の立役者鄭の武公の妃は申公の娘です。すなわち、武公の妃と平王の母親は姉妹であった可能性が高い。

 さて、史記では外孫の宣臼を廃太子された申公が怒って、西戎とともに首都成周にいる幽王を攻めて西周を滅ぼしたことになっています。そして鄭の武公が洛陽に平王を擁立しました。

 何かおかしくはありませんか?

 申公が幽王を滅ぼしたのであれば、素直に漢中で宣臼を王にすればよいはずです。けれども、漢中では携王が擁立され、宣臼は副都の洛陽で王位を宣言しました。これは矛盾しています。成周にいた幽王を滅ぼした申公は、何故わざわざ洛陽に戻ってから宣臼を王にしたのでしょうか?

 通常であれば、宣臼を旗印にして成周に攻め込み、悪王の幽王を倒して成周で宣臼を王様にするはずです。

 幽王を滅ぼしたとされる申公は鄭公と血縁関係がありました。それでは申と鄭は示し合わせて幽王を滅ぼしたのでしょうか?鄭の桓公は、自分と血縁関係がある宣臼を王にするために幽王を殺したのでしょうか。それも違います。なぜなら鄭の桓公は西周滅亡の際に殺されているからです。

(1)宣臼(平王)は太子でも何でもなかった。
(2)申公は成周に攻め込んでいない。
(3)鄭の武公は幽王と一緒に殺されて、武公の息子の桓公が
   洛邑で申公と一緒に宣臼を周王に推戴した。

 以上のことから得られる結論は、西周の滅亡は申公や宣臼とは全く関連がないと言うことです。西周で何らかの理由で幽王や鄭の武公が殺され、東側の洛邑で鄭の桓公や申公が、たまたまその場にいた宣臼を王にしたと言うだけです。平王が幽王からないがしろにされたという伝説は、東周の王朝を正当化するための後付けです。

 平王という諡号自体が、元々王になれそうもなかった王子が王になれたという意味を含んでいるのでしょう。

 以前私は秦の起源の分析において、幽王は西域出身の近衛兵の叛乱(クーデタ)によって殺されたのではないかと推測しました。近衛兵の中心となっていたのが後の秦公ではないかと考えられます。反乱者たちは周を滅ぼすつもりはありませんでした。彼等は伯服を殺しましたが、携王を推戴しています。

 このクーデタは伯服とその兄弟の間の王位継承争いだったのでしょう。伯服の弟が、幽王・太子(伯服)・鄭の武公を攻め滅ぼし、携王として即位したのでしょう。

 そして王位継承争いの蚊帳の外に置かれていた宣臼は、洛陽で申公と鄭の武公に保護されていたのでしょう。宣臼は申公にとっては外孫、武公にとっては従兄弟に当たります。王位継承争いで漢中が混乱したので、武公は勝手に平王を擁立したのです。

 周の末期の王位継承は混乱しており、複数王が立つことは珍しくありませんでした。元々は携王の方が正式な王で、平王の方こそ諸侯が勝手に擁立したスペアだったと考えられます。

 しかしこの時期の中国の政治経済の中心は、漢中から東の中原に移行しており、スペアであったはずの平王の系統の方が残りました。東周王朝は王位継承権の正当性を主張するために、宣臼が太子ではなかったのは幽王が褒姒に迷ったから、という伝説を作り上げました。

 平王は成周の携王を滅ぼして、周を統一しますが、成周には入らず、洛陽に帰りました。その後何故か成周があった地域は秦の領土となります。秦が勢力を伸ばした経緯は歴史からは抹殺されています。幽王の死亡の30年後に秦は急に歴史に登場します。その時には秦は既に漢中の支配者でした。

 そして何故か秦には成周の伝統が保存されていることになっています。

 秦公は周王室の血筋を推戴するのはやめて、自ら支配者として漢中に臨んだのでしょう。

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