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2013年6月16日 (日)

四国旅行(5)

 5月2日、四国旅行もいよいよ最終日。この日は私のルーツである讃岐を回りました。私の父方の出身地は讃岐の坂出、瀬戸大橋の下の島です。田舎に帰れば昼飯はうどん、暑い日にはお昼寝、讃岐のゆる〜い空気こそ私のルーツなのです。


 

 朝の8時に高知駅から特急に乗って琴平へ向かいます。2年前は真夜中に土讃線を通過したので全然景色は見られませんでした。今回、四国山地が山深いことに驚きました。一時間弱駅がなく、ひたすら山また山、備後落合、夕張、只見なみの山の深さです。予土線もかなり秘境ですので土佐は別天地だなと思いました。

 

 一時間半で野球で有名な池田に、そこから半時間で琴平に着きます。琴平からは琴平高松鉄道に乗り換えです。その前に金比羅宮にお参りしてきました。学生時代の登ったときには死にかけたけれど、今回は瘠せて体重が減っていたのでひょいひょい登ることができました。金比羅さんは最近金色のお守りを出すようになったらしく、どぎつい色だった物の、いかにも御利益がありそうな色であったのでつい一つ買ってしまいました。

 

 香川県には琴平電鉄という長い歴史がある私鉄が走っています。琴平線は大正13年設立、長尾線は明治42年設立、志度線は明治43年設立の私鉄です。四国の玄関高松と、金比羅宮、お遍路のお寺を結ぶ目的で設立されました。3社が統合して高松琴平電鉄となったのは昭和18年。寺社の参拝客と、地元民の通勤通学の足として活躍しましたが、平成13年に瓦町駅ビルの経営難により一旦倒産、しかし再建され現在に至っています。

 

 田舎の私鉄としては珍しく標準軌です。そのため京王のお下がりがたくさん走っています。伊予鉄も井の頭線のお下がりを使っていました。京王が身近な人間としては不思議な感じがしました。

 

 琴電は高松市街以外はずっと田舎を走る私鉄です。田舎ばかり走っているのによく100年も続いたもんだと感心します。でもこのローカルな雰囲気は大好きです。

 

 琴電というとゆるキャラのことちゃんです。ことちゃんは駅員の姿をしたイルカさんで、元々屋島水族館のイメージキャラだったと思うのですが、琴電が再建された際にイメージキャラとして採用されました。ゆるキャラの走りで、あの愛くるわしく緊張感なくうどんをすする姿が一部には大受けです。琴電ではメモやシールやマグカップなどのキャラクターグッズが売っていて、私もあのつぶらな瞳に惹かれて、ついついメモとシールを買ってしまいました。ゆるキャラのくせに嫁さんのことみちゃんもいます。

 

 琴平から琴平線に乗って高松築港駅へそこからターミナルの瓦町へ戻ります。瓦町の駅の雰囲気は阪急や近鉄によく似ていました。真似をしているのかもしれません。そこからまず長尾線に乗りました。

 

 長尾線の終点には八十八カ所の八十七番目札所の長尾寺があります。なんのきなしに参詣してみたら、源義経の妻静御前の墓所であるとわかり驚きました。

 

 静御前の母磯禅尼は長尾の富農の出身で、美貌と舞の才能をかわれて上京、藤原通憲(信西)から芸の手ほどきを受けて後白河院のお気に入りの白拍子となります。静御前は後白河院と磯禅尼の間に生まれた落とし胤という伝説もあります。

 

 静御前が後白河院の御落胤であったとすると、義経は後白河院の婿であったことになり、鎌倉の頼朝の危機感がよく理解できるようになります。婿であれば完全に京都側の人間です。スパイとして疑われるのは当然で、鎌倉入りを拒否され、討伐されるのも無理はなかったということになります。

 

 逆に義経の側からすると、京都と鎌倉の関係を良好にするために後白河院との縁者になったつもりだったのかもしれません。運命の兄弟の不幸なすれ違いの中心には静御前がいました。

 

 長尾と屋島は近いです。屋島合戦というと、義経の嵐の中の無謀な渡海が有名ですが、これも静御前本人かその縁者から屋島周辺の気象や地形を教えてもらった上での計算づくの行動であった可能性が出てきます。静御前が讃岐の出身者であったことを考慮に入れると、義経の謎が色々と解明できそうです。

 

 義経討伐令が出て、頼朝に義経との間にできた男児まで殺された傷心の静御前は、母の磯禅尼と共に長尾に引きこもって髪を下ろしたと言われています。鉄道旅行のついでに寄ったお寺でこのような歴史ロマンに触れられるとは思ってもみませんでした。

 

 もう一度瓦町に戻り、今度は志度線の乗りました。志度線の終点志度は八十六番札所の志度寺です。エレキテルで有名な平賀源内の出身地です。さらに志度には戦国武将生駒親正のお墓があります。生駒親正は織田信長の愛妻生駒吉乃(きつの)の従弟です。

 

 生駒家は尾張と美濃の国境で商業に従事していた集団河並衆とも関係が深かったとされます。河並衆の総元締めが蜂須賀小六です。蜂須賀家は阿波(現在の徳島県)に、生駒家は讃岐東部(現在の香川県東部)に封ぜられました。

 

 生駒家は後にお家騒動を起こして改易されてしまいます。

 

 志度寺で手を合わしていたら、お寺のごしんじょさんからのど飴をもらいました。

 

 志度から瓦町に戻り、立派な商店街を徘徊してうどん屋を探し、うどんをたべました。本場の讃岐うどんは美味しかったです。アーケードの外にもたくさんのうどんやさんがあり、今度じっくりうどんや巡りをしてみたいなと思いました。

 

 築港からJR高松駅まで歩き(すぐ近くです)、そこから瀬戸大橋線を通って倉敷に帰りました。今回はのんびりと、大好きなローカル線を満喫し、美味しい食事もでき、温泉にも浸かれて最高の旅でした。四国はとてもリラックスができました。ルーツだからかもしれませんね。

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