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2013年7月 6日 (土)

禁断の日本近代史(一)

 戦後に書かれた政党政治史には一つのお約束があります。それは民政党を善玉とし、政友会を悪玉として描くことです。民政党は大正デモクラシーの申し子であり英米協調の平和主義政党、それに対して政友会は利権政治家の巣窟で大陸進出を進めた悪い政党、少なくとも私が読んだ近代史はどれもこういう見方でまとめられていました。

 

 

 外交という視点で見ると、政友会が日本の活路を大陸に進出に見出して英米と衝突して、大東亜戦争の敗戦を招いてしまった以上、政友会の政策は失敗だったと言わざるを得ません。

 

 しかし政友会が大陸進出を党の政策としたのは民政党の経済政策が失敗続きで日本の経済を破綻させたからでした。民政党が経済オンチであった、このことは近代日本史を描く際になぜか抜け落ちている視点です。英米協調を善とするあまり、ダメダメだった民政党の経済面を無視、ひどい物では正しい政策扱いしている研究者までいます。

 

 大正デモクラシーから軍部登場までの歴史をいまいち分かりにくくしているのは、戦後の歴史研究者が民政党善玉論にとらわれているからです。彼らは民政党を善とするあまり、民政党が元々官製政党でデモクラシーを潰すために作られたという出自すら覆い隠し、民党を母体とする政友会を官製政党であるかのような著述をし、デモクラシー史を分かりにくくしてしまっています。

 

 そして民政党善玉論に立っている限り、どうして日本が大陸を侵略しなければならなかったのか、なぜ青年将校がテロとクーデタに走ったのか、軍部と新官僚が国家社会主義体制を目指したのかが分かりません。これらはすべて民政党の経済失政の後始末としてやむを得ず出てきた対策だったのです。

 

 政友会は板垣退助の自由党を母体としています。しかし板垣にはカリスマ的人気はありましたが、政策もなければ党を運営する実務能力もありませんでした。自由党の実務は星亨が握っていました。

 

 板垣らの薩長閥への個人的怨念だけでまとまった政党では先は無いと考えた自由党の首脳は、伊藤博文と協力し、自由党に官僚出身者や財界出身者を大幅に加えて、自由党の政策能力を増強したのが立憲政友会です。初代総裁は伊藤博文です。原敬はこの時に大阪毎日新聞社長から政友会に転身しています。ちなみに原敬は元外務官僚です。

 

 伊藤は政友会の支持をえて内閣を組織します。これが第四次伊藤内閣です。在任期間は明治33年10月か〜34年6月(00年〜01年)です。この時に北清事変が勃発しています。第四次伊藤内閣は15人の閣僚のうち7人が政友会所属ですので立派な政党内閣です。

 

 その後伊藤は総裁の座を西園寺公望に譲ります。西園寺は明治39〜41年(06〜08年)、明治45〜大正元年(11〜12年)に政権を担当しました。伊藤と西園寺という藩閥政治家が政党の首班になって、政党と藩閥が協力しながら政治をしていたということを評価したくない戦後の研究者は伊藤の末年の業績と西園寺の業績を意図的に無視しています。

 

 そうしないと悪い藩閥をデモクラシーが打倒したという戦後のデモクラシー史観が維持できないからです。日本近代史を勉強していると、日露戦争の次に大正デモクラシー運動に話が飛ぶので、急に政友会が登場して何がなんだか分からなくなります。政友会初代総裁が伊藤博文だったことに、戦後の研究者は触れたくないのです。

 

 西園寺内閣は日露戦争で疲弊した国内の経済を立て直しました。西南戦争の際に膨張した財政を縮小してデフレを招いて経済を停滞させてしまった失敗を知っていた原敬は、財政を縮小させず戦争に使っていた国力を公共事業に振り向けて地方の開発を進めました。農商務省で働いていたこともある彼の面目躍如です。

 

 西園寺内閣が内政重視であったことに、山県有朋は危機感を抱きます。折角日露戦争で苦労して大陸に足がかりを築いたのに、政友会は大陸の利権を放置している。このままでは再びロシアやドイツが満州や朝鮮に進出してくる。

 

 西園寺内閣が財政を縮小させないことに対しても、金融界と財務官僚は危機感を抱いていました。戦争の時には思い切り歳出規模を拡大させるけれど、戦争が終わったら戦争以前の規模まで歳出を縮小させる。そして戦争の時に発行した国債を地道に返す。これが19世紀の経済政策の常道でした。

 

 戦争で拡大した歳出を縮小させずに国内の開発に振り向ける手法は、この時の日本の発明です。そのご開発独裁として世界に広まります。開発独裁なんて悪い名前で呼ばれていますが、立派な政策です。なぜこのような悪い名前で呼ぶかというと、英米にとり発展途上国に強力な政権ができて、発展することが面白くないからです。

 

 政党と官僚が協力し合った西園寺内閣の業績は、国は悪いという戦後のアカデミズムのお題目にとっては都合が悪いので無視されました。

 

 さて、西園寺内閣の成功に危機感を抱いた対外進出派と財政縮小派は対抗政党を作ろうとします。首班は桂太郎がなるはずでしたが、政友会は山県肝煎りの政党ができるのはまずいと第三次桂内閣打倒運動を繰り広げます。これが第一次デモクラシー運動です。これによって成立したのが第一次山本権兵衛内閣です。

 

 しかし海軍の汚職事件(ジーメンス事件)によって山本内閣は総辞職しました。政策ではなくスキャンダルによって内閣を潰す手法はその後も日本で多用され、未だに日本の政治を混乱させています。

 

 今度は桂内閣の時に対外進出、財政縮小を中心政策としてまとまろうとしていた立憲同志会、中正会、公友倶楽部が与党となって、大隈重信を首班とする内閣を作りました。しかしこの時に欧州で第一次世界大戦が発生し、大隈は財政縮小をひとまずおいて、対外進出を進めます。

 

 この後しばらく、日本は大戦景気に沸きました。内閣は大隈から寺内正毅に移行。しかし大正6年(17年)に欧州諸国に習って金輸出を禁止。これによって信用力が低かった円は価値を下げて、日本国内はインフレになります。ここにシベリア侵出が重なってインフレが急進、米騒動が生じて寺内内閣は崩壊、再び経済立て直しのために原敬が登場します。

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