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2013年7月 9日 (火)

禁断の近代日本史(四)

 世界恐慌に金解禁による混乱が追い討ちをかけて、日本は金融恐慌に陥ります。まず浜口首相が狙撃されます。浜口はすぐには死にませんでしたが、若槻礼次郎に首相は交代します。

 

 若槻内閣も金融恐慌に対して何も対処しませんでした。民政党の経済失策は明らかでしたが、民政党は内閣総辞職しませんでした。ここで官僚と軍部に政党への不信感が芽生えます。もともと官僚と軍部は、国のことよりも個人の利益を優先する集団ではないのかと、政党に不信感を持っていましたが、西園寺内閣以降徐々に政党・官僚・軍部は信頼感を醸成していました。

 

 内閣交代による政策変更が期待できないと考えた軍部は満州事変を起こします。列強が経済をブロック化し、日本が輸出を妨げられているので、物理的に土地を占領してそこへ輸出をしようとする政策です。これまでは戦争は必ず内閣の支持によって行われていましたが、内閣とは関係ないところで勝手に戦争が発生し、それを内閣が追認してしまうという前例ができてしまいました。

 

 民政党をバックアップした勢力は、財閥に生産力を集中させることによって国力を高めようとしていました。しかし、庶民への手当が何もありませんでした。これに対して、国に生産力を集中させることによって、総力戦を戦い抜く国力を実現させようとする勢力が出てきます。新官僚と青年将校です。第一次世界大戦は国の生産力をすべて戦争につぎ込む戦いでした。来るべき戦争は必ず総力戦となると予想した青年将校たちは、経済の国家統制を強めようとします。

 

 これは民間任せの経済運営が浜口内閣の時に失敗したからです。鎖国状態だったソ連が世界恐慌の影響を受けなかったのを経済の国家統制の成功と勘違いしたというのもあります。

 

 また経済の国家統制は、国民への手当も考えていました。総力戦を戦うには国民の協力が欠かせないからです。年金・健康保険・借家人の保護・農業生産設備の共有化(農協)・政府による中小企業支援(財政投融資)などの政策はこの時に新官僚と青年将校によって生み出されます。

 

 政府の役割を拡大する政策は、資産家の利益と真っ向衝突します。青年将校は資産家、もっと具体的に言うと華族がこれら庶民を救う政策を妨害していると考えました。これが君側の奸です。

 

 政友会の犬養毅首相は高橋是清を蔵相として招き、金輸出を再禁止、公共事業拡大路線に復帰、日本はいち早く世界恐慌から抜け出します。しかし満州国不承認、上海事変収拾を図ろうとしたため、海軍青年将校を中心とするテロリストによって暗殺されました。これが五一五事件です。

 

 悪いことに、海軍青年将校が主体のテロ事件後に、宮中は海軍出身の斉藤実を首相に選んでしまいます。八方ふさがりだった系材状況に対して、満州事変やテロなどの行動で打破しようとした軍部を国民は応援したため、斉藤内閣は満州国を認めてしまいました。

 

 これによって、財政が縮小されそうになるとテロや事変が発生するという悪循環が始まります。二二六事件が発生したのは高橋蔵相が、そろそろ財政を引き締めに戻そうとしたからでした(同じ頃ルーズベルト内閣もニューディール政策を縮小しようとして不景気を招いています)。ノモンハン事件や仏印進駐、そして真珠湾攻撃もそういう面があります。

 

 当時の日米の外交関係は今の逆で、日本が血を出して中国と東南アジアの商取引を守り、米国がそれにただ乗りして商売をする状況でした。欧州諸国がブロック経済を作ることを米国は苦々しく思っており、米国にも権益を明け渡すのであれば、日本とドイツの植民地再編を認めるつもりでした。

 

 それに対して、日独が米国のただ乗りを拒否したところから、両国と米国の対決が始まります。米国にとっても日独は最大の投資先だったので、米国は日独の軍事行動に対してずっと甘い顔をしていました。

 

 米国が日本と開戦に至ったのは、彼らが輸出先として期待していた中国を、日本が囲い込む姿勢を明確にしたからです。英蘭仏が追い払われたアジアを自由貿易圏にすることで漁父の利が得られると考えたためでもあります。

 

 第二次世界大戦後に米国が実現した自由貿易圏というのは、中国をのぞく旧大東亜共栄圏と西欧だけです。戦後の米国の経済発展はこの地域を確保したことによって実現したわけですから、大東亜戦争は畢竟日本と米国の植民地獲得戦争だったと言えるでしょう。

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コメント

こんにちは。こっちが本論です(笑)。
興味深い論考で、大筋で同意します。今から記す点は、やや批判的な記述が中心になりますが、これは、「言及していない点は大体同意」とご理解ください。なお、語尾を「断定の叙述法(modus)」で書く点についても、あくまで私の主観的見解です。基本的には、論旨の補充の一つの仮案程度に、気軽にお読みくだされば幸いです。

一つ目は、関東大震災(1923年9月1日)の影響です。震災での首都圏壊滅の影響は大変に大きく、ここで首都圏の生産力は壊滅的に毀損します。そして、相模トラフ地震では名古屋以西は無傷ですから、大日本帝国の経済重心が、西へ傾くことになります。この時点で、必要とされる経済政策が、地域ごとに極端に異なる状況が出現します。西日本は依然として過剰設備ですが、首都圏は「債務を残して設備が壊滅している」からです(震災手形問題は、1920年代を通じて巨大な政治経済問題であり続けます)。

当時論ぜられた遷都論のうち有名なものは、「兵庫県加古川案」と「朝鮮京畿道龍山(ソウル南郊)案」で、いずれも東京よりずっと西です。当時の大日本帝国の版図は、台湾と朝鮮を組み込んで「H型」をしており、東京は東に寄り過ぎですから、首都を西に移転させることには、地理的合理性がありました。

ところが、政府中枢側がこれを断固拒否します。主力は、摂政宮(つまり後の昭和帝)と後藤新平東京市長です。政府は「帝都復興に全力を尽くす」こととし、東京に首都を置いたまま、焼け野原の復興に資源を集中させます。

皮肉にも、これがさらに地域間格差を増す結果となります。兵站は西日本が担いますから、西日本特に大阪神戸は好況に沸きます。東京横浜自体には資源が集中投下されますから、それなりの好況を維持します。割りを食ったのは東北です。

いっそのこと、西へ遷都してしまえばまだマシだったのでしょう。そうすれば、もうひとつの問題として、僻地たる東北支援の考え方が出てきたでしょう。ところが、東北は東京に近すぎたのです。しかも国庫は全然足りない。ここに、原敬的再配分政策が、「正論として否定される」ことになります。「帝都復興と帝国発展の脚を引っ張るな」というわけです。

続きます。
2つ目は、「華族を過大評価してませんか?」ということです。大日本帝国の華族制度は、本来の意味での屈強な世襲貴族集団でもなく、さりとてイギリスのような、富と権力を独占する「近代貴族集団」でもない、後付け的で奇妙な、そして大変に脆弱な存在です。「君側の奸」なるスローガンの、真の名宛人つまり攻撃対象は、華族ではありません。

ならば誰か?と言えば、まさかのまさか、昭和天皇その人です。昭和帝は、根っからの民政党好きなのです。イギリス仕込みの、ハイブロウな立憲君主制の薫陶を受けている点も大きいのでしょうが、純粋に君主個人の政治性向と言う方がすっきり理解出来ます。昭和改元後の20年代後半から、「君側の奸」批判がヒートアップするのは、正式即位して、昭和帝には大胆に政策意見を下されることが増えたためです。

軍部青年将校たちは、なぜこんな迂遠な批判をしたのか?と言えば、帝国陸海軍は天皇直属であって、正統性の根源が天皇自体にあるからです(君主国ではこれは当然のことです)。ところが、君主とて一人では統治出来ません。手足・身体(corpus)が必要です。そこで、君主を崇めつつ、「君側の奸を排除」して君主を丸裸にし、具体的な大権の弱体化を図ろうとしたのです。

この手法は、幕末の尊攘倒幕派の最左翼(岩倉具視、平田系国学者、長州の下級藩士など)が行った政治闘争方法と、大変によく似ています。1868年1月3日に、宮中クーデターを起こした王政復古政府がまず最初に宣言したことは、「神武創業に遡って」「摂関制度を廃止すること」です。まず、平安以来、天皇を代々守ってきた公家集団の分厚い制度をてっぺんから破壊して、明治天皇を、制度的に丸裸にしようとしたということです。こう考えると、青年将校たちが「昭和維新」と気取ったことは簡単に理解出来ます。理想論ではなく、現実政治として方法が同じだからです。


これが行き過ぎて、君主制があまりにも脆弱になったことに危機感を感じた伊藤博文が、急拵えで創作した「バラック藩屏」こそが、華族制度だったのだ、と私は理解しています。そもそも、伊藤の言う、「天皇の藩屏を『創る』のだ」という発想が、そもそも言語矛盾に近い奇妙奇天烈な話です。古今東西、世襲貴族集団というのは、そんな存在ではありません。ドイツ第二帝政にしても、王権が、どれだけ貴族・領邦領主たちと壮絶な戦いを繰り広げてきたことか。結局、ドイツ皇帝は、完全な「廃藩置県」には見事に失敗しています。これはフランス王国も同じであって、真正の貴族集団というのは、それほどまでに強いのです。

thomas様こんばんは

レスありがとうございます。今回のエントリーの不足部分を埋めてくださりありがとうございます。

華族についてはもう少し掘り下げないといけないなと思っていました。

昭和天皇は山縣有朋のおかげで謹厳実直な軍人に囲まれて育ったせいで、清濁併せ持った政党政治家を理解する機会を失ってしまったのですよね。

山縣有朋は原敬の暗殺を大変に残念がっていたのですが、その際に原が尊皇派だからという発言がでてきます。山縣も摂政の宮の回りにいる人材の偏りには気がついていて、原に自分の死後(山縣の方が高齢出先に死ぬはずだった)の宮中を任せるつもりだったのでしょう。

昭和天皇は田中義一政友会政権は一喝して倒閣してしまったのに、濱口・若槻政権は失政の連続でも全く問題視していません。やはり政治家に対する好みがあったのかもしれません。

あと、これはあまり触れたくないことですが、昭和天皇は軍人に育てられたこともあって戦争が好きなんですね。これは間違いがないです。

何か国際問題が生じた時に、戦争という選択肢を選ぶことに昭和天皇は明治帝・大正帝と比べて積極的です。それは発言を追えば分かる。

太平洋戦争では細かい作戦にまで御下問しています。ある歴史好きが昭和天皇に大本営を委せていればいい線いったんじゃないかといっていましたが、参謀の能力がある君主はむしろ国家にとって不幸です。

本来時間稼ぎをするべきだった時に、近衛を守らずに東條に任せてしまったのに昭和天皇の戦争好きが現れています。近衛と木戸が命と生涯をかけて守ろうとしたのは、昭和前期の失政の責任の一端が昭和天皇にあることだったのだと思います。

昭和金融危機の一因は震災復興手形でした。震災が発生したのは、昭和天皇が摂政に就いた直後で、震災復興が一段落して不景気になるのがその約10年後の昭和5年頃になります。

首都圏の住民を復興事業で救ったのは正しい選択だったといえますが、東北はその他の地域への食料供給地の役割を与えられてしまい、米価抑制のために割を食うことになったんじゃないでしょうか。

東北にも北海道同様に官営の工業地帯が宮城に建設されていたのですが、明治18年に大洪水があり壊滅。その後も明治21年の磐梯山噴火(山体崩壊を伴う世界的にも巨大な噴火でした)、明治40年の大水害、明治43年の明治三陸大津波と不運に見舞われたため、災害に弱い地域という定評ができてしまい、工業生産地としては放棄されてしまいました。

江戸時代の日本経済の中心軸は実は日本海側だったのですが、これは奥羽・関東・東海の太平洋側が周期的に大地震と大洪水に襲われていたからと言う面もあります。

おそらく今後50年間の間に、首都直下型地震、相模トラフ地震、東南海地震、三陸沖地震が発生するのは確実なので、大東亜戦争後に太平洋岸に寄せすぎた工業生産力を日本海側に回帰させる政策が必要になるはずです。

現在工業生産高は京浜工業地帯よりも中京工業地帯の方が高い状態ですが、東南海地震が発生すれば津波で中共は崩壊します。内陸に組み立て工場を設置して備えている会社もありますが、部品工場のほとんどは海岸沿いにあるので東南海地震が発生すれば日本の工業生産は麻痺します。

工業生産力が太平洋岸により過ぎたのは、ロシア・中国に共産政権ができて、日本の原料供給地が大陸から南方に大幅に移り変わったのと、国防上の見地からです。

北朝鮮という問題はありますが、幸い中国は日本海に領土を持っていないので、ロシアとさえ関係改善ができれば、日本海側に生産力をシフトさせるのは国防上の問題はあまり生じません。

バブル崩壊後日本は需要不足に悩まされましたが、地震に備えて日本海側に生産力を移すことが今後の大きなテーマになるんじゃないでしょうか。

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