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2013年7月31日 (水)

禁断の日本近代史(六)

21)軍人に囲まれて育った昭和天皇

山縣有朋は、伊藤死後の皇族のお目付役でした。明治・大正と政党にとって物わかりがよい君主が続いて軍の権限が縮小している、そう感じた山縣は、大正天皇の皇子たちに軍隊教育を施します。教育係責任者は乃木希典。そして漢学者や日露戦争の英雄などを教育係に配置し、皇子たちを政治家からシャットアウトしました。

そのため昭和天皇は人脈が軍人(それも高齢)に偏る、というアキレス腱を持つことになりました。そのため昭和天皇は、政治危機に陥るたびに軍人に頼って、政党政治を弱体化させるという悪循環に陥ります。

昭和天皇が摂政として最初に対処したのは、軍縮と関東大震災でした。

原総理の暗殺が大正10年11月で、ワシントン軍縮会議が翌大正11年2月です。(五)で触れたように皇太子の摂政就任が大正10年11月末。皇太子の摂政就任は、海軍を押さえてワシントン軍縮会議をいかに成功させるかが当面の目的でした。

摂政宮の側近は海軍軍人が多かったのと、海軍出身の加藤友三郎が首相だったため、ワシントン軍縮会議は無事成功しました。しかし加藤友三郎は激務により一年で急死、後継選定中に関東大震災が発生して首都圏は壊滅しました。後を継いだのはやはり海軍首脳の山本権兵衛です。

この時に政友会は原死後の内紛で混乱し、床次竹次郎が半分以上の代議士を連れて脱退して政友本党を作ってしまいます。このように政党側は混乱していたのと、政党内閣で軍縮を飲ませることは難しかったため、軍人総理が続いたのでした。閣僚も貴族院中心で超然内閣です。

 

22)関東大震災と東北地方の疲弊

関東大震災復興のため、軍に資源を振り向けることができなくなり、更なる軍縮が行われます。これが大正14年の加藤高明内閣による宇垣軍縮で、陸軍4個師団が廃止されました。

師団は軍人だけで1〜2万人を養い、周辺に食品、服飾、娯楽産業を必要とする一大産業ですから、師団廃止による地方経済への悪影響は少なくありません。北樺太からも撤退し、シベリア出兵が終了します。

このように首都復興のために、政府は首都圏への投資を増やしました。当時の工業生産は西日本に偏っていたので、復興需要によって西日本は潤いました。都市と農村の人口逆転もこの頃で、日本の経済基盤は農村から都市へと大きく移行します。所得税法が成立したのが、大正15年です。財政の基盤は地租と間接税から、所得税や法人税に移行しつつありました。これも、都市の発言権を高めます。

それに対して、東北地方は師団の廃止や米価抑制によって経済が停滞します。農村で子供の身売りなどが横行したのはこの時期です。

 

23)田中内閣の大陸進出策

震災復興が一段落したのが昭和二年頃で、そのために例の需要不足が生じ、昭和金融危機が発生しています。時の政権は加藤高明の憲政会から田中義一政友会(長州出身の軍人)に移行していました。田中義一は、山東に出兵し、張作霖と協定を結ぶなど大陸権益確保に動きます。

中国では内戦が進展し、軍閥が十個くらいの勢力に収斂しつつありました。軍閥は近代的な装備を持ち、日本軍とも対抗できる力を備えつつありました。

最終的には蒋介石の国民党によって強力な政権ができるであろうことは容易に予想ができました。蒋介石は海岸部の経済力を握っていたのと、英米の支援があったからです。日本の軍部は、満洲権益維持に危機感を懐きます。

復興需要終了後に、再軍拡によって経済を回すか、原内閣以降拡大し続けていた政府と民間の債務整理をするかで政策の対立が生じます。この時に田中総理が張作霖爆殺事件処理で身内に甘い裁定を下したために昭和天皇が激怒しました。田中首相は動揺し、この事件以外では特に失策がなかった田中内閣が総辞職する事態となります。

明治の元勲は、天皇と言い合いすることも珍しくなかったのですが、昭和天皇と高官の間の関係は遠かったのです。そして秀才型の昭和の高官は、天皇は国家機関の一部くらいにしか思っていませんでした。その天皇が激しい感情を露わにしたため、田中首相は激しく動揺し、そのまま総辞職してしまったのです。おそらく伊藤博文や山縣有朋であれば、仮病でも使って風向きが変わるのを待ったと思いますが、昭和の高官にはそのような度胸はありませんでした。

 

24)昭和天皇の好み

武人型の軍人に育てられた昭和天皇は、不明瞭な言動をする不誠実な人間が嫌いでした。そのため、政友会に多かった地元利益誘導型の政治家や、田中義一や宇垣一成といった、軍人政治家に不信感を懐いていました。せっかく軍縮をしたのに、田中内閣が軍拡に動いていることもあって、不信感が爆発したのです。

反対に昭和天皇はストイックで実務型の人間を好む傾向がありました。昭和天皇が民政党を好んだのは、民政党には官僚出身者が多く、都市に基盤を持つ中産階級出身の政治家が多かったからです。彼らは金銭的余裕があり、個人としては清廉な人物が多かったのです。欧風文化に慣れ親しんだ昭和天皇にとっては、地方から出てきた政友会の代議士よりも、都市出身者が多い民政党の方が肌合いが合ったというのもあるでしょう。

ちなみに、昭和天皇が軍縮にいそしんだのは、国力を首都復興に振り向けるためであり、世界平和は関係ありません。昭和天皇はリアリストですから、軍縮によって世界平和が実現するなどという絵空事は信じていなかったでしょう。軍縮はあくまで国民を救恤するためでした。

 

25)昭和天皇と西園寺公望

田中義一内閣が潰れたことにより、西園寺公望の顔は丸つぶれになりました。

昭和天皇は五一五事件の時にも犬養政友会総裁が海軍軍人に暗殺されたにもかかわらず、後継を政友会から選ばずに、側近である海軍軍人の斎藤實に大命を降下させています。

濱口雄幸が狙撃された際には民政党の若槻礼次郎に大命を降下させていますので、これは公平ではありません。昭和天皇が政友会を嫌っていたことは否定すべくもありません。

明治の元老と異なって、昭和天皇と西園寺公望はあまり直接に会っていません。昭和天皇と西園寺の関係はあまり良好ではなかった可能性があります。年齢が離れすぎていますし、西園寺は公家出身者であるので、天皇に直接物申すことに憚りがあったと考えられます。

そのため西園寺は、昭和天皇と年齢が近い近衛文麿と木戸幸一を昭和天皇の側において補佐させようとしました。しかし近衛の周囲には共産主義者など不穏な連中も多く、近衛自身も強い意志に欠ける人物であったため、昭和天皇が西園寺を遠ざけてからの宮中の判断は迷走を続けることになります。

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