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2014年10月30日 (木)

手塚治虫の「ブッダ」

復刻ドットコムが手塚治虫の「ブッダ」を復刻した。雑誌「希望の友」と同サイズのB5判、なおかつ雑誌収録時の扉絵を全て収録、ノンカットの豪華版だ。
 
「ブッダ」は単行本化されるときにオカルトチックな描写が一掃されていた。私は今回それを初めて知った。単行本では狂言回しのタッタが、動物に乗り移ることができる霊能力者として登場するが、雑誌判では子供時代のシッダールタも同じ霊能力を持ち、動物や虫に憑依するシーンが出てくる。
 
また、苦行林で修業するブッダが悪魔の誘惑を受けるシーンも、雑誌判は詳細に描かれている。悪魔との対決は緊迫感があり、シッダールタが悟りを開くシーンを盛り上げてくれる。なぜ単行本では収録されなかったのだろうか。
 
超自然的な悪魔の登場を避けたのかもしれない。あるいは悪魔は自分はシッダールタの親友であるビンビサーラ王と、妻のヤショーダラ姫でもあると自称する。この部分はよく分かるのだが、仏法を保護したマガダ王と十大弟子の一人ラーフラの母(ということに宗教上はなっている)のヤショーダラ姫を悪魔と同一視することに、仏教界から懸念が表明されたのかもしれない。
 
悟りを開くシーンでは手塚治虫の生命観が存分に表明されている。「火の鳥」だけでは分からなかった手塚治虫の世界観を補完するミッシングリンクといえるすごいシーンで、非常に重要だ。
 
一冊6千円もするが十分にその価値がある。
 
さて、手塚治虫の「ブッダ」ではシッダールタが全ての生命は平等で互いに互いを必要としあっていることを自覚して、悟りを開く。これは大乗仏教の真如であり、日本的大乗仏教のブッダといえる。読者はこれに感動する。私も少年時代に非常な感銘を受けた。
 
しかし、最近研究の進んだ原始仏典では、釈迦は修行者にはひたすら孤独に修業することを勧めている。人生の束縛から自由になるために、家を捨て、名利を捨て、山野で一人修業をすることを生前の釈迦は唱えたらしい。大乗仏教の釈迦像とは真っ向対立するように見える。私も中村元のスッタニパータを読んで以来、手塚治虫のブッダは実在の釈迦とは全然関係がないと思い、「ブッダ」から離れた。
 
しかし、同じく原始仏典の中にある「ブッダ最後の旅」では死を目前にした釈迦が自然と生命と人生を賛美する下りがある。また、最近読み始めた「ジャータカ(古代インドの仏教説話集)」では、動物と人間の生命に差がなく、次々と動物と人間を生命が渡り歩く世界が描かれている。
 
「ジャータカ」には後の仏教のように、動物に生まれ変わることを前世の罪に対する懲罰と見なす思想がない。釈迦も前世は動物だった。動物に生まれ変わることが肯定的にとらえられている。ジャータカの釈迦像は手塚治虫の描くブッダに近い。
 
仏教は無常を説き、最高の境地であるニルヴァーナ(涅槃)は、無の境地(死という解釈もある)であると長い間理解されてきた。こんなことを望むインド人はよっぽど厭世的な人達なのだろうという誤解が日本人にはあるが、ジャータカは驚くほど楽天的な世界の中でインド人が生きていることを教えてくれる。それにインド人が出家して修業する目的は、天界に生まれ変わって贅沢三昧をするためなのだ。
 
このようないわば享楽的とも言える古代インドで熱狂的に受け入れられた釈迦が、本当に生命は皆孤独だというような教えだけを説いたとは私は思えなくなってきた。出家者にはそう説いたのかもしれない。しかし、在家信者向けのもう一つの仏教の潮流であるジャータカにある生命を謳歌する明るい教え、これもまた釈迦の真の姿ではないかという気がしてくる。
 
手塚治虫の「ブッダ」もまた正しいのではないか。20年経ってまたそこに戻ってきた。
 
実際のところはどうだったのだろうか?それは永遠に分からないが・・・

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