アイドル
「王位についた王子前生物語」(2-96)
師はスンバ国のデーサカという町の森の中に滞在しておられたとき、このように教えを説かれた。
「修行僧たちよ、もしも国一番の美人と評判の女性がいて、その女性の前に大勢が集まってきたとしよう。そして国一番の美人が歌ったり踊ったりしているのを見るために、より一層多くの人が集まってきたとしよう。」
「そこに、生きていたい、死にたくない、楽しみたいと思っている一人の男がいるとしよう。ある人が剣を抜いてその男に「大勢の人々と国の美人の間を通って、油のいっぱい入った鉢をもって通り抜けよ。一滴でも油をこぼしたら頭を切り落としてしまうぞ!」と脅迫したらお前たちはどう思うか?その男はその油の鉢を不注意に扱って、うっかり油をこぼしてしまうだろうか?」
「いいえ、そうはいたしません。」
世尊はこう説明をされた。「油のいっぱい入った鉢とは、身体についての想念の意味である。だから、修行僧たちよ、このように修学すべきである。わたしたちにとって身体に関する想念の修習と完成が必要である。このように、修行僧たちよ、お前たちは修学しなければならない」と語られた。
しかし修行僧は「尊師よ、この男がなした、国の美人を見ることなく、油のいっぱい入った鉢を持っていくということは難しいことです」
それに対して師は「確かにこれは難しいことである」とお答えになり過去の話をなされた。
(女夜叉が美食や心地よい寝床で旅人を誘惑して食べてしまう物語が続く)そして、次の詩を唱えられた。
いままで行ったことのない方向を
行きたいと望む者は
へりまでいっぱいに入った油鉢を
持っていくもののように自分の心を護れ
このように、師は涅槃に至る法話にて語られた。
<解説>
これもお釈迦さまが臨終の際に説いた話であることが示唆されています。やはり大パッリパーナ経から漏れたお釈迦様最晩年の逸話なのでしょう。
国一番の美人が歌って踊るとは、なんだか今のアイドルみたいです。二千五百年前のインドにも、美女が歌って踊る催し物があったのでしょう。大パッリパーナ教では、お釈迦さまが大金持ちの遊女アンバパーリーの招待を受ける話が載っています。<遊女>という単語を見るとドキッとしてしまいます。しかしこれは歌って踊る芸能人を指していたのかもしれません。もちろんお釈迦さまは職業差別をする人ではないので、お釈迦さまを招待した遊女が、日本語そのものの意味だったとしても、問題はありません。
鉢にいっぱいになった油はもちろん人間の心の比喩です。お釈迦さまは、修行とは熱狂する人々や心地よい快楽に囲まれながらも、水面に波を立てずに進む(生きる)ことだと言っています。ジャータカ(十一)…苦行への態度にあるように、苦しい修行をして、何か不思議な力を身に着けたりすることではないのですね。
そしてお釈迦さまはこれが難しいことであることを否定しません。そして、その先に何か良いことが起きるとも言っていません。ひたすら油をこぼさないように進めと言っているだけです。正直な説話だと思います。
もう一つ重要なのは、鉢にいっぱいになった油が心であり、その油を運ぶ人間が本来の自分であると読み取れることです。あれ?心が体に命令して体を動かすのではないのでしょうか?お釈迦さまは逆だと説いています。心が暴走しないように、身体を平静に保てと言っているのです。心を修行させて複雑なことを覚えたり、高度な思考ができるようになったり、欲望がない心を作ることが修行だとは言っていないのです。
平静な生活をした結果として心が平穏になるといっています。心が体に命令を下しているのではなく、生活の結果が心に表れているにすぎないといっています。表面的な心の奥に、心を運んでいる自分がいるのだといっています。心ではなく生活態度が本当の自分だといっています。
これは後世の禅に通じるとは思えませんか?
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