マハーカッサパ
サーリプッタの死後、教団を指導したのはマハーカッサパでした。彼は第一回結集の座長でした。彼は清貧を旨としたといわれています。僧侶としての彼は地味な人であったようで、特別な逸話は残っていません。ジャータカに残る逸話も、彼のまじめな性格を表しています。
原始仏教教団の修行風景がうかがえる、彼の逸話を紹介します。
「小屋の破壊前生物語」(3-321)
かつてマハーカッサパ長老が、マガダ国の王都ラージャガハ近郊の林の小屋に住んでいたころ、二人の少年が近侍していた。一人は長老に良く仕えたが、一人は手に負えない悪童であった。この悪童は、もう一人がしたことを、ことごとく自分がしたかのように装うのであった。
良い方の少年が洗顔用の水を用意しておくと、長老のところへ行って敬礼してから、「先生、水を汲んでまいりました。お顔を洗ってください」などと言った。
また、良い少年が早起きして掃除をしておくと悪童は長老がやってくる頃にあちこちをはたいて、自分が掃除したかのように見せかけた。
勤めに忠実な少年は、「こいつはぼくのしたことをみんな自分がしたかのように装ってしまう。こいつのずるい行いを暴いてやろう」と考えた。
そこで悪童が食事を済ませて村から戻って眠っている間に、浴用の湯を沸かしてからそれを奥の部屋において、他にコップ一杯ばかりの湯を釜の中に入れておいた。悪童は目を覚まして釜から湯気が立っているのを見て、
「湯が沸かされて浴室に置かれているのだろう」と思って、長老のところへ行き、「先生、浴室にお湯を入れました、ご入浴ください」と言った。しかし行ってみると湯がないので「湯はどこかね」と尋ねた。悪童は急いで炊事場に戻って空の釜に柄杓を突き入れた。ひしゃくは釜の底に当たってコツンと音を立てた。それ以来悪童は<ひしゃくのコツン>とあだ名された。
まさにその時にもう一人の少年は奥の部屋から湯を運んできて、「ご入浴ください、先生」と言った。長老はこれまでのことを顧みて、ひしゃくのコツンが手に負えない者であることを知り、彼を戒めた。
「きみ、修行者というものは、自分がしたことだけを『私がしました』というべきであって、そうでないと故意に噓をついたことになってしまう。以後このようなことはしないように」と言った。
悪童は長老を逆恨みして、翌日は長老と托鉢に行かなかった。ひしゃくのコツンは長老に帰依している家に行き、「長老は気分が悪くて僧院にとどまっておられます」とうそをつき「長老がこれとこれを必要とされています」と言って、物を受け取り、隠れて食べた。
翌日長老はその家に行って座に着いた。家の者たちは、
「ご気分は悪くございませんか、あなたさまは昨日は僧院にとどまっておいでとのことでしたので、これこれの若い方に託して食べ物をお送りいたしました。お召し上がりくださいましたでしょうか」と尋ねた、長老は黙って食事を終えて僧院へ戻った。
夕方ひしゃくのコツンがご機嫌伺にやってきたときに、「きみ、村でこのようなことを言って自分で食べたそうだが」と切り出して、「自分の方から下さいと言い出すのはよろしくない。二度とこのような不行跡をしてはならないよ」と言った。
ひしゃくのコツンは長老を逆恨みして「この人は昨日もたかが湯ぐらいのことで私に文句を言ったが、今もまたこの人の帰依者の家で僕が一握りの食べ物を食べたことを我慢せずに再び小言を言う。今に見ていろ」と思い、翌日長老が留守の際に小屋の物品を打ち砕き、草庵を焼き払って逃げた。
〈解説〉
二千年前もずるい奴、性質の悪い奴はいたのだなと思わせる逸話です。やさしい和尚さんのマハーカッサパでも手に負えない人というのはやはりいたのでしょう。いくらできたばかりの仏教教団とは言えども、感化できない人はいたはずで、こういったあまり都合のよくない話も記録されているところにジャータカのリアリティを感じます。
この逸話は、原始仏教教団で、地位の高い僧侶がどのような暮らしをしていたのかを教えてくれます。普段は村の近くの林の中に草庵を編んで暮らしていました。そこには長老の世話をする若い小僧さんが付いていました。
僧侶は午前中に近郷の在家に托鉢に行き、食事を分けてもらっていました。マハーカッサパのような大物ともなると、ファンの在家がいて、病気をしたときなどは栄養のあるものをくれたりしたようです。
食事の後は、僧院へ行って座禅を組んだり、他の僧侶と教学の議論をしたりしていました。
これはタイやミャンマーなどで今でもみられる僧侶の生活とほとんど変わりません。南伝仏教は原始仏教の姿をよく保存しているのではないかと考えられます。日本でも、中世の僧侶はこのような生活をしていました。それは日本霊異記や今昔物語などにある通りです。
大昔だからと言って、何か特別な修行法とか教えがあったわけではないようです。
また、マハーカッサパとアーナンダは不仲であったと言われているのですが、第一回結集ではマハーカッサパはアーナンダが暗記していたお釈迦様の言葉を基準に、教えをまとめているので、両者が不仲だったというのは史実ではないのではと私は考えています。不仲だったのは、両者の弟子同士ではないでしょうか。
マハーカッサパの修行法は伝統的なヴェーダ信仰者の苦行に近いです。マハーカッサパの弟子たちはヴェーダ信仰と融合する方向に進みました。
それに対して、アーナンダは四姓の平等を説く方向へと進んでいきました。マハーカッサパの弟子たちにとっては、カースト制を否定する、アーナンダら釈迦族出身者の教えは認めがたかったはずです。
この両者の対立が、経典の中でアーナンダを低く評価し、釈迦族を敵視する伝説(ヴィドーダバによる釈迦族滅亡の物語)を産む元になったと考えられるのです。
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