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2017年5月17日 (水)

僧侶と在家

前回、仏弟子にふさわしくない行動をした僧侶を在家信者は拒否できることがジャータカには書かれていることを説きました。
 
お釈迦さまはそのすぐ次の説話において、僧侶に対して、在家信者からの布施が十分でないことを、修行が進まない理由としてはならないこと、普段世話になっている在家信者の困難を、僧侶は見過ごしてはならないことを説いています。
 
 
「大オウム前生物語」(5-429)
 
ある修行僧は禅定を修する場合の課題(業処・公案)を得て、コーサラ国の国境の村に近い森に住んでいた。村人は彼に、夜の住まい、昼の住まいなどを用意し、恭しく仕えていた。
 
しかし彼が雨季の安居に入った時に、その村が焼けてしまい、人々には種すらも残らなかった。修行僧の住居は無事であったが、村人たちは、修行僧においしい食べ物を与えることができなかった。彼は食物に悩んで、課題に取り組むことができなかった。
 
雨季が終わり、修行僧は師の元に報告に来た。師は彼に、「食物には困ったろうが、住居は適当であったか?」と尋ねた。修行僧は、住居は適当であったが、食事が不十分だったために、十分に課題に取り組むことができなかったと報告した。
 
「修行僧よ、僧侶は住居が適当であれば、むさぼりの心を捨てて、手に入ったもので満足するのがふさわしい。友情を捨ててほかの場所に行ってはならない。」とお釈迦さまは教え諭した。
 
 
〈解説〉
お釈迦さまは僧侶に遊行を進め、在家信者と馴れ合うことを禁止しました。原始仏教では、なんでも修行第一で回っていたかのように解説している人もいます。
 
またインドにおいては、僧侶が在家から布施を受けるのは当然で、それに対してお礼を言ってはならないとされていました。これは仏教もヒンズー教も共通です。そのため、今でもインドや東南アジアでは僧侶に布施をしても、僧侶は眉一つ動かずに平然と、布施を受け取って良いことになっています(どういう行動をするかは個人差があります)。
 
さらにお釈迦さまは、食事や住居の世話を受ける交換条件として、説法をすることを禁止しています。
 
これを受けて、南伝仏教やチベット仏教では、信者が僧侶を世話するのは当然と考える向きがあります。しかしこの説話でお釈迦さまは、世話を受けている在家信者が困難に陥っているときに、僧侶は彼らを見捨てるような真似をしてはいけないと言っています。共に困難に寄り添えという意味でしょう。
 
一度自分がその村の世話になると決めたのならば、災害によって条件が悪くなっても逃げてはならない。ましてや在家の供養の質が落ちがことを、修行が進まない理由にしてはならないのです。大事なのは、布施に在家の気持ちがこもっているか否かだとお釈迦さまは説いています。
 
即ち、僧侶は在家から布施を受けても、それに感謝を表明してはならないが、恩があることは忘れてはならないとお釈迦さまは考えていたことになります。このあたり、世間の原始仏教の理解では、誤解があるような気が私はします。原始仏教では、僧侶と在家の関係には緊張感があり、対等であった可能性があります。信者は、この僧侶には徳がないと感じれば、堂々と僧侶を拒否しても良かったのです。
 
 
〈業処〉
この修行僧は業処を与えられて、禅定をしていました。業処とは、禅定をする際に考えるテーマのことで、初心者に無念無想で禅定することは難しいので、テーマを与え、それを念じることで精神を統一させる原始仏教の修行法です。念仏もその一種です。後に臨済宗で公案に発展します。

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