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2017年5月 6日 (土)

アーナンダ2

釈迦族の滅亡を推理するシリーズ第二弾。第一弾では、コーサラ国は仏教の保護者であったことを確認しました。ではなぜお釈迦さまの出身地であるカピラヴァットゥとコーサラ国は対立するに至ったのでしょうか。おそらくマガダ国の意向が影をさしているのでしょう。
 
お釈迦様入滅後数十年間の仏教教団の動きを、ジャータカから推測します。それはアーナンダが教団の主宰者であった時期に重なります。お釈迦さまの侍者ではなく、教団のリーダーとしてのアーナンダはどのような環境の中で、どのようにふるまったのでしょうか。
 
 
〈釈迦族の亡命〉
 
大パリニッパーナ経ではアジャータサットゥ王はリッチャビ族を滅ぼそうとして、お釈迦さまに止められています。リッチャビ族は仏教に好意的でした。さらにサーリプッタのファンでした。それを滅ぼそうとしたアジャータサットゥ王は、とてもではないですが仏教の庇護者とは言えません。
 
ここから導かれるのは、マガダ国はカピラヴァットゥに攻略を仕掛けたけれど、コーサラ王家と血のつながりがあるお釈迦さまの一族は、拒否したということでしょう。しかし、アジャータサットゥ王の時代にマガダ国はコーサラ国に対して攻勢に出ます。釈迦族の王族であったデーヴァダッタは、アジャータサットゥ王に協力したのでしょう。これにより、カピラヴァットゥではマガダ派が優勢となり、コーサラ派のお釈迦さまの一族はいずらくなったと考えられます。
 
マガダ国の教団を取りまとめていたのはサーリプッタでした。彼の故郷はマガダ国に近かったからです。しかし、ジャータカの中のサーリプッタの系統の説話は、マガダ王家とデーヴァダッタに厳しく、サーリプッタの弟子たちがマガダ王家を恨んでいたことが分かります。アジャータサットゥ王はデーヴァダッタの教団を保護し、サーリプッタを冷遇したのでしょう。サーリプッタが早世したのはこれによる心労かもしれません。
 
お釈迦さまが入滅される数年前に、サーリプッタの幼馴染で教団の顔役であったモッガラーナが、異教徒に襲われて死去しています。ほどなくしてサーリプッタも死去していることから、晩年のサーリプッタとモッガラーナは、マガダ国でひどい迫害を受けていた可能性があります。迫害の中でも毅然として教えを守ったからこそ、「法の将軍サーリプッタ」という名前が残ったのではないでしょうか。
 
早晩、マガダ国との戦争、もしくは内乱の危険が一族に及ぶことを察知したお釈迦さまは、コーサラ派に担がれていた親族を出家させます。王族だけではなく、コーサラ派の一般市民も、コーサラ国に移住したのでしょう。
 
マハーパジャーパティーとともに釈迦族の女性が大量に出家しようとしたことに対して、お釈迦さまは難色を示しました。それに対して女性たちが出家できるように口利きしたのは、アーナンダでした。アーナンダがお釈迦さまの侍者になったのはお釈迦様55才の頃です。したがってお釈迦さまの一族がコーサラ国に亡命したのは、お釈迦様60歳の頃でしょう。アジャータサットゥ王が即位した時期と重なります。マハーパジャーパティーは相当高齢だったはずです。彼女が出家を決意したのは、おそらく夫のスッドーダナ王が死去して、コーサラ派の後ろ盾がなくなったからでしょう。
 
コーサラ王家は亡命者を保護しました。この釈迦族の亡命者が、コーサラ国の仏教信者の核となったと考えられます。
 
〈アーナンダとコーサラ王家〉
 
お釈迦さまやサーリプッタは、政治によって一族や信者が害されないように、大変な苦労をされていたことが推測できます。お釈迦さまの死後、アーナンダがその役目を負ったのでしょう。ジャータカによると、アーナンダはコーサラ国王と頻繁に会見しています。
 
ジャータカにはダヌッガハティッサ長老という僧侶が、コーサラ国王に兵法を指南したという記述があります。「大工イノシシ前生物語」(3-283)。
 
この説話では、マガダ国との戦いが敗戦続きであることに業を煮やしたコーサラ国王が、スパイを仏教教団に送り込みます。つまりコーサラ国王は、仏教教団の中にマガダ国に寝返って国家機密を漏洩しているものがいるのではないかと疑っていたのです。
 
ダヌッガハッティッサ長老が、的確な戦争の分析をしているのをスパイが聞き、コーサラ国王がそれを採用して、マガダ国との戦線を立て直すという説話です。スパイが聞き耳を立てたというのは、僧侶が戦争の指導をしていたらまずいからで、実際は王に請われて進言をしたのでしょう。日本でも中国でも僧侶が軍師として大名に戦略を説いたりしていますので、同様にしてインドの僧侶にも兵法を指南するような人がいたのでしょう。
 
各国が仏教僧侶をはじめとする遊行者を保護したのも、情報収集の意味があったのでしょう。自由に国境をこえることができる宗教家が、情報収集の手段となったり、外交使節となったりするのは、世界共通の現象です。
 
 
〈釈迦族の王アーナンダ〉
 
ジャータカの中でのアーナンダの前生で圧倒的に多いのはなんと「王」です。ジャータカではアーナンダは王様として扱われています。アーナンダはお釈迦さまの従弟、もしくは甥なので、王位継承権は十分にありました。
 
ジャータカではアーナンダを王とし、お釈迦さまを大臣にしている話も少なくありません。とはいえ、おっちょこちょいな王様だったり、間違いを犯して大臣にたしなめられたりするのですが、王です。お釈迦さまもあまり前生で王になぞらえられていません。サーリプッタを王になぞらえた説話はありません。
 
これも、コーサラ国に釈迦族の亡命者のコミュニティがあったのではないかと私が考える根拠です。亡命者の間でアーナンダは、潜在的な王として扱われていたのでしょう。
 
こう考えると、アーナンダに女性からの誘惑が多かった理由も見えてきます。亡命釈迦族としては、なんとしてもアーナンダに子孫を残してもらいたかったのでしょう。アーナンダが美形だったことだけが彼がもてた理由ではないと思います。釈迦族も、そしてコーサラ国の貴族も、流浪の王子というロマンティックなイメージで彼を見ていたのでしょう。そして、アーナンダを誘惑して還俗させて、カピラヴァットゥ奪還をさせようともくろんでいたのでしょう。
 
 
<仏教の大衆化>
 
以上のように、アーナンダはコーサラ国で、相当政治に関与していた可能性が高いです。
 
このことが、マハーカッサパが第一回結集においてアーナンダを冷遇した、という正統な経典の記録を、私が疑う理由の一つです。コーサラ王家から多大な庇護を受け、釈迦族の推定王位継承者であったアーナンダを、低く扱うことはできないはずだからです。コーサラ王家は、第一回結集の時期の仏教最大の保護者だったからです。
 
経典の中で、釈迦族、特にアーナンダを貶める表現が多いのは、お釈迦さまの死後に迫害を受けていたマガダ国の僧侶たちのやっかみがこもっているのでしょう。ジャータカはアーナンダを神格化しているので、ジャータカの古い部分はサーヴァッティーの教団で説かれていた法話をまとめたものと考えられます。
 
ジャータカに出てくる説話は、昔話や例え話を多用し、在家を主人公とし、あるいはお釈迦さまや弟子たちの人間臭いエピソードも織り交ぜた、親しみやすい教えでした。仏教が大衆的な宗教となるきっかけを作ったのはアーナンダであると言えます。
 
アーナンダは長寿だったので、お釈迦さまの死から30~40年後に死去したと考えられます。ついに釈迦族に悲劇が訪れます。それは古代インド世界の終焉とも密接にかかわっていました。土着民族とヴェーダ信仰の融合による古代インド文明はここでいったん終了し、ギリシャやペルシャの影響を受けたヘレニズムインドともいえる時代がスタートします。
 
 

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