南都の児の利口のこと(沙石集)
「沙石集」より、奈良に貧乏だけれど詩歌管弦に巧みな和尚さんがいて、近所の親が子供を習いに行かせていて、お堂の中にはいつも子供がたくさんいた。それを見たあるお坊さんが、「鮨にするほど子供がいるな」と呟くと、ある子供は「子供は鮨にするほどあるけれど肝心の飯がない」と言い返した。なかなか利口な児である。
さて、この小噺、現代人からするとわかったようなわからないような話です。なぜお坊さんから「鮨にするほどある」という表現が口をついて出てきたのでしょうか。これは、当時の鮨は全て「馴れ寿司」であったことを頭に入れないと面白みが分かりません。
馴れ寿司は、フナなどのお魚をお米の中に入れて時間をかけて発酵させて作ります。桶いっぱいに魚とお米を詰めて作ります。鮨にすれば柔らかくなるので、焼いては食べにくいような小さなザコで作ります。つまり、お寿司というのはもともと取れすぎて食べ切れない小魚を保存するための調理法だったのですね。
食べ切れない大量の小魚を桶の中に詰め込んで作るのが、古来のお寿司でした。ですから、狭い破れお堂に芋の子を洗うように子供がぎゅうぎゅうに詰め込まれている状態を見て、「鮨にするほど子供がいる」という表現になったのです。なるほどかわいらしい情景が浮かびます。貧乏を苦にしない子供の返しもうまいですよね。
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