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2018年1月20日 (土)

禁断の日本近代史(番外編)

表題のシリーズ、近衛文麿が登場したところで止まってしまったのは、私の中で昭和天皇像がまだ固まっていなかったからです。
 
 
昭和天皇は、子供時代を日本中が日露戦争の勝利に沸く中で過ごしました。教育役は最高級の軍人ばかり。ですから、当時の健全な日本男児の一人として、戦争が大好きだったはずです。
 
言うまでもありませんが人殺しが好きという意味ではありません。当時の世界では国と国が戦争で勝敗を決するのは、男の最高のロマンでした。君主こそ、戦いの場では先頭に立ち、強きをくじき弱きを助ける最高級の戦士たることが求められていたのです。こう言った君主像が最も高まっていたのが、19世紀から20世紀初頭にかけての欧州でした。日本もその流れに乗っていました。だから昭和天皇が戦争好きでなかったら、むしろその方が異常です。
 
さらに、このサイトにかつて書き込んでくれたPN林権助さんが指摘されたように、先帝は大東亜戦争の趨勢に強い関心抱いておられました。側近には細かいところまでご下問されていました。作戦に対する質問も的確でした。
 
先帝が単なる戦争好きの男の子の域を超えていたのは、兵站にも通じていたことにあらわれています。軍需物資の残量を覚えて、適当な報告でお茶を濁そうとする陸大出の参謀を、数字を出してやりこめています。林権助さんがおっしゃったように、昭和天皇が参謀総長であれば、日本は米国との戦いもいい線行ったかもしれません。
 
しかし、昭和天皇が戦争を避けようとしていたのも事実です。たくさんの記録が残っています。戦後の宮中は、東京裁判で先帝が訴追されることを回避するために、西園寺公望の業績を先帝の業績として占領軍に報告したようなのですが、西園寺の死後は独自の判断で戦争回避のために大変な努力をしています。鈴木貫太郎内閣ができてからの終戦までの流れは、昭和天皇が主導しています。
 
個人として戦争好きであったことと、君主としては避戦の言動がどうも一致しなくて筆が止まってしまいました。
 
しかし、この矛盾する昭和天皇像を無理なく統合する方法があることに最近気が付きました。
 
昭和天皇は、軍人としてあまりに優秀であったため、自分の部下の軍人たちがいかに無能であるかわかっていた、だから戦争したくなかったのではないでしょうか。
 
物心ついたころから、乃木希典・東郷平八郎・鈴木貫太郎なんていう歴史上最高級の武人に薫陶され、青年期には最高級の軍政家であった山縣有朋に触れて、戊辰や日清日露戦争の列国との交渉や、戦場の兵法の機微を知っていた昭和天皇にとって、昭和の軍人はどうしようもなく軽薄に見えていたのではないかと思います。
 
参謀や軍政家としての才能があるだけに「こいつらに任せていたら絶対に戦争に負けるな」ということが分かったのではないかと思います。だから戦争に協力するかのようなそぶりを見せながら、土壇場では戦争を止めようろするというアンビバレントな行動を繰り返したのではないかと思うのです。
 
それと、おそらく貞明皇太后と西園寺公望が怖かったのではないかと思います。この二人は徹頭徹尾戦争に反対でした。西園寺公望は英米との戦争に強硬に反対していました。二十年近くフランスに滞在していますし、西園寺には何か独自の情報網があったのかもしれません。貞明皇太后は公家の女性として、母として、戦争には生理的な嫌悪感があったのでしょう。
 
昭和天皇の無意識が、斎藤実や近衛文麿と言った身内が進めた軍部への協力を見て見ぬふりをし、宇垣一成や平沼麒一郎と言った肌合いが合わない政治家がやっていた、軍部を抑え込む努力を見殺しにするという形で、日本を戦争に駆り立てたことは私は間違いないと思っているのですが、これは個人の内心の問題ですし、日本全体がそういう流れの中にいたわけですから、先帝個人は責められないと思います。

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