« 無量寿経(二) | トップページ | 古代シナ史の三重構造 »

2018年1月13日 (土)

無量寿経(三)

この無量寿経の教えは、危険思想なのでしょうか?
 
非現実的な浄土を想像するだけで救われる。俺は念仏を唱えて救われてしまったのだから、後は何をしたってかまわない。そう考える人が現れてもおかしくありません。
 
実際、法然上人の弟子の中からそのような無頼が現れたため、法然と親鸞は後鳥羽上皇から流罪を言い渡されてしまいました。親鸞上人の実子善鸞は、悪人正機を曲解したために親鸞から義絶されてしまいます(親鸞からヒミツの奥義を伝授されていると善鸞がふれこんだからという説もあります。親鸞はそのような階級を嫌ったからこそ、比叡山を捨てて浄土門に入ったのでした。)
 
 
7)縁起説の取り違え
仏教の命題はただ一つです。それは「結果には必ず原因がある」です。
 
お釈迦様の一番弟子であるサーリプッタ(舎利弗)は、アッサジの詩を聞いて法の目を開きました。この詩に仏教の命題が凝縮されています。
 
  諸々の事がらは原因から生ずる
  真理の体現者はその原因を説きたもう
  諸々の事物の消滅をもまた説かれる
  大いなる修行者はこのように説きたもう
 
仏教では原因からは結果を確定できないと考えます。悟った人が行った行動は、全てが清浄な行動だから、正しい結果しか生まないという考え方は仏教に反しています。悟った人が行った行動が、どういう結果を生むかは、その時になって見ないとわかりません。
 
こういうことを行ったので、結果は必ずこうなるという考え方はしないのです。ですから、厳密にいうと、仏教と古典物理学は世界観が異なっています
 
もちろん蓋然性で結果を推測はできます。余計な因縁(業)を呼び起こす可能性が低い行動は経験的にわかっていますので、お釈迦様も業の少ない生き方を勧めています。
 
ですから、どちらかというと仏教の世界観は量子力学に近いです。量子がどこにあるかは確率でしか表現できません。次に何が起きるかは、その時になって見ないとわかりません。
 
さらに、二千年前に仏典を漢訳した人が、それぞれの如来が住む場所を意味する梵語の「セートラ」を、「世界」と訳したことから、千年前に大乗仏教を生み出した人たちが、宇宙が枝分かれして増えていくことをイメージしていたこともわかります。これは「やさしい易」に書いた水風井とも関連してきます。浄土教の次に解説しましょう。
 
そもそもニルヴァーナ(涅槃)は全てが寂滅した状態です。寂滅した状態からは作用は生じません。
 
悟りを開いた人であっても、なにか行動をすることによって新しい果を必ず生み出してしまいます。生きている限り、譬え如来であろうとも因果の網目からは逃れられません。だからお釈迦様も注意深くありなさいと言ったのでした。いくら精神的な高み?に到達したと思っても、不注意の結果、他人に迷惑をかけたらその原因を生み出した責任からは逃れられません。私のようなおっちょこちょいには耳が痛い教えです。
 
8)浄土教の実践は厳しい
実は浄土教は、実践することが非常に難しいのです。
 
何故なら、念仏によって浄土にアクセスしてしまった人は、もはや如来の隣に座っているのと同じことになります。如来が横にいるのですから、自分の行動には言い訳ができません。自分が理想と考える世界の住人と同じ行動を、今すぐにとることが求められます。
 
そういった意味でも、冒頭に述べたような屁理屈は浄土教の教えを曲解していると言えます。この人の如来は盗みをすることを勧めるのでしょうか?盗人浄土なんてあるのでしょうか?あるとしたらそれは地獄ではないのでしょうか。
 
念仏をして浄土にアクセスするとは限りません。念仏を唱えた結果、悪事をすることを正当化するに至った人は、地獄にアクセスしたのかもしれませんね。
 
9)浄土教とインターネット
無量寿経の解説で、浄土をダウンロードする、浄土にアクセスすると書きました。無量寿経の世界観は、コンピュータのインターネットと親和性があります。無量寿経では、たくさんある宇宙に、時間と空間を越えて、一体になることができると考えます。でも体は生きている間はこの宇宙にあります。
 
つまり、無量寿経の念仏とは、浄土の情報を受け取ることなのです。
 
この考え方は、中世から近世にかけての日本の仏僧には標準的でした。説話拾遺には「心清く観念明らかなれば、浄土に依正心に浮かびて、わが心仏の心、この穢土かの浄土へだてなきこと、池水に月も空も浮かべる如し。空かと思えば池、池と見れば空、水かと見れば月、月かと見れば水なること、観念実に時あるに似たり」とあります。
 
説話拾遺は驚くべきことに、浄土門の心掛けではなく,真言密教の加持の心がけとして、これを書いています。心清らかにしたときに浮かぶ浄土と本当の浄土の間に区別はない、これは中世以降の日本の仏教の基本的な考え方です。

« 無量寿経(二) | トップページ | 古代シナ史の三重構造 »

仏教」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/173723/66256458

この記事へのトラックバック一覧です: 無量寿経(三):

« 無量寿経(二) | トップページ | 古代シナ史の三重構造 »

2018年1月
  1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31      
無料ブログはココログ