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2018年1月10日 (水)

無量寿経(二)

無量寿経の真髄は、如何に浄土が実際に存在する世界であることを信ずるかにあります。自分が何らかの手順を踏んで、如来になるような修行を無量寿経は求めてはいません。
 
 
5)三千世界=別の宇宙
無量寿経の後半は、延々と宇宙に存在する数多くの浄土の描写に終始します。如来はマイトレイヤー(弥勒菩薩)に、過去に存在した仏が生み出した浄土と、宇宙の四方八方に存在する仏が生み出した浄土を描写します。現代人の我々が読んでいると、うんざりしてくるほど、延々と浄土の説明が続きます。
 
しかしこれは複数の世界(=宇宙)がこの世には存在していると説いている点で画期的です。ジャータカの世界は、過去にしか伸びていませんでした。古代インド人は数限りないお釈迦様の前生を想像しましたが、それらは過去の世界でした。世界は一つだったのです。
 
しかし無量寿経では、世界は過去だけでなく、四方八方にも存在していると言っています。同時に複数の宇宙が存在していると説いているに等しいでしょう。
 
なぜ数限りない浄土があると説くのか、それは今のこの世界は確かに浄土ではないかもしれないが、広い空間軸と時間軸の果てには数えきれないほどの別の宇宙があるのだから、その中には必ず自分が気に入った浄土がある。その気に入った浄土と直接に繋がってしまえば、悟りを開いたのと変わらないというのが、念仏の肝であるからです
 
6)念仏は精神のテレポーテーションである
経典に書かれた浄土を思い浮かべることを念仏と言います。方法は人それぞれ、どんな方法でも問題ありません。絵が好きな人は浄土の絵を眺めるのも良いでしょうし、阿弥陀如来や天人の絵を描くのもありでしょう。フィギア好きな人は、仏のお像を作るのもいいでしょう。浄土の料理を想像するなんてのもありかもしれません。想像力に自信がない人や時間がない人には、法然上人が生み出した名号(南無阿弥陀仏)を唱えるという方法もあります。
 
さて、ここからは科学的な理屈から飛躍した、宗教心の問題です。無量寿経を作った人にとっては、如来の存在も浄土の存在も自明のことでした。彼にとっての念仏とは、実際の存在する浄土と精神面でつながって、その情報を自分の精神の中にダウンロードすることでした。
 
これは浄土経典の解説なので、念仏主体で説明しますが、一心不乱(三昧)に念仏をしていると、どこかの段階で心に思い浮かべた浄土に対して、リアリティーを覚える瞬間がやってきます。浄土の存在を確信します。その瞬間、自分は浄土に転生することが確定します。
 
一度浄土と精神がつながってしまえば、現身はこの世にあっても、精神は浄土で如来の隣に座り、天人に囲まれているのと同じになります。精神にとっては距離も時間も意味をなさないからです。
 
精神はすでに浄土にいるのだから、浄土に暮らす人たちと同じような、清らかな生活ができるでしょう。というのが無量寿経の後半の教えです。

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