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2018年1月14日 (日)

古代シナ史の三重構造

「封神演義」が再アニメ化されたので、古代シナの斉について、思うところを。
 
古代シナの歴史は三重の構造になっていて、研究する人たちの間でも、どれを語っているのかわからなくなる混乱が発生しています。
 
 
 1-考古学的資料から推測される現実に起きたこと
 2-春秋戦国時代まで残っていた伝承
 3-前漢時代に四書五経・史記・諸子百家としてまとめられた公式記録
 
近年の開発によって1が多く出土し、四書五経に残っている内容と全然違う古典があったこともわかってきました。史書には登場しない重要な武将がいたらしいことや、殷の遺臣が陝西で重用されていたこと、東国では西周末期まで陝西の諸侯と東夷の戦いが続いていたこともわかりつつあります。
 
文字資料を必死に読んで復元できるのは2までです。しかし、2は陝西から来て中原を征服した西周によって捻じ曲げられています。
 
孔子は2に通じていたようです。彼は詩経を政治の風刺ではなく恋愛詩として読んでいますし、時代劇としての歴史に通じていました。時代劇の脚本を歴史書風にまとめたのが春秋左史伝です。孔子は司馬遼太郎の小説と史実の区別がつかなくなっている文化人みたいな感じです。また白川静が解明したように、彼には神秘家としての面もありました。
 
「史記」斉大公世家によると、師尚父(太公望のこと)は莱と営丘の地を争い、周初の東国の混乱を征伐した結果大国となって、営丘を都としたとあります。
 
そして西周後期に胡公が都を薄姑に移します。しかし内部争いが起こって、胡公の弟が薄姑を滅ぼして臨シに都しました。
 
それより前に胡公の父哀公は周の夷王によって釜茹での刑に処されて殺されています。
 
山東の土地からは、殷から与えられた青銅器が出土しており、金文には、東夷と陝西諸侯との激しい戦いが西周時代を通じて続いていたことが分かります。
 
したがっておそらく、斉は西周初期には殷側の残留勢力の本拠地だったのであり、それが夷王の時代に滅ぼされて、新しい斉という国が臨シに建てられ、それが春秋時代の桓公の時に強力になって、太公望伝説が喧伝されたと考えられます。
 
1-東夷だった殷末周初の斉
2-西周の外戚だった遊牧民の姜族の呂氏が広めた太公望伝説
3-歴史から西洋の影響力を黒歴史として消したかった儒学者が作った歴史の中の斉
という構造があります。
 
孔子はバリバリの東夷でした。彼は西周が侵略者であることを知っていました。しかし、彼は西周がもたらした合理的な考え方に惹かれていました。そして魯を支配する斉が大嫌いで、西周の伝統を継承した秦も嫌いでした。そこで、西周が遊牧民だったことを隠し、河内や山東が武王の時代から周の支配下に合ったかのような歴史を伝えようとしたのです。
 
本来河内や山東は、殷周革命の後も西周には服属していなかったのであり、春秋時代の中盤になってやっと、「中国語の世界」になったのです。春秋左史伝が何故か春秋時代の中盤から始まるのも、東周が始まった頃はまでは魯の土地ですら、中国語をしゃべる人たちが支配する土地ではなかったからです。

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