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2018年2月28日 (水)

龍樹菩薩(二)

龍樹菩薩の言っていることは難しいようでいて、実はそんなに難しくはありません。ただし理解するきっかけがなかなか得られないだけです。
 
 
龍樹は運動(正確に言うと動詞)によって自性が変化しないことを証明しました。といってもよくわからないと思います。なので、わかりやすく図示してみましょう。
 

Rujuna01

物体を赤という価値観で二分すると上の図のようになります。色があるものは、「赤いもの」か「赤くないもの」のいずれかに属するでしょう。空のように時と場合によって青くなったり赤くなったりするものもありますが、ある瞬間には赤いか赤くないかのどちらかでしょう。

では運動(動詞)によって、動詞の主語はこのように分類できるのでしょうか。たとえば辰木さんが、転校して学校を去るとします。辰木さんは去るに分類されるのでしょうか、去らないに分類されるのでしょうか。

Rujuna02

転校する前の辰木さんはもちろん、いずれ去る者かもしれませんが、去る者ではないでしょう。

Rujuna03

転校した後の辰木さんは、前の学校の生徒から見たら去ったものかもしれませんが、去る者ではありません。新しい学校の生徒から見たら、来た人であって去る者ではありません。

Rujuna04

どこにも「去る」に分類される人がいないことになります。このように、動詞を属性として、動詞の主語を分類することはできません。一休さんの頓智みたいですが、当たり前のことですね。

つまり、動詞はその運動を起こした主語の属性を変化させることはできません。

動詞によって人を分類することはできないのです。

動詞は、それを表す運動を、主語が行っている間は、その主語の属性となります。しかし運動が終わったら動詞があらわす属性は主語から離れます。

人間の自我が、生まれてから今まで行ってきた運動のログ(記録)であるとすると、どれだけ運動のログを重ねようと、自分の本性はそれによって変化することはないのです。いくら運動を重ねようと、それによって自分は何者かになることはできません。

 ・自分が何者かであるのは、何かをしている瞬間だけ。

 ・運動が終了すれば、自分は何者でもなくなる。

 ・自我(運動のログ)によって、自分を変化させることはできない。

これは、業(カルマ=運動のログ)によって、人間の価値が恒久的に変動するというインド哲学の基礎の否定なのです。

結論として「運動のログである自我は自分ではなく、ただの記録に過ぎない」ということになるでしょう。

 

 

(注意)哲学的な話であって、運動の結果として発生する結果に対して、社会的責任を負うべき人格がいなくなるという意味ではありませんので、あしからず。

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