龍樹菩薩(一)
ナーガルジュナ(龍樹菩薩)は紀元前二世紀ごろにインドにいたとされる仏教思想家です。空の理論を確立したと言われています。
龍樹が取り組んだのは、必ず主語+述語という形をとる印欧語では一般的である、無生物を主語とする文章における主語は存在するのかということでした。
したがって、主語を必要としない言語である日本語を使う日本人にとって、龍樹は必要ありません。龍樹が一生かかって到達した地点に、日本人は生まれた時から立っています。
龍樹はものすごく高尚なことを言っているように思えますが、実は彼は必ず主語を必要とする言語である印欧語に苦しめられていたのでした。
例えば赤い色をした椅子があるとします。日本語では「赤い椅子」で終わります。赤いという枠組みの中に椅子を入れるだけで終わりです。
しかし印欧語の一種である英語ではThe chair is red.となります。ただ、英語は印欧語としては不完全なので、例としてはよくありません。red chairでもなんとかなるからです。
もっと印欧語として完全なスペイン語ではsilla rojaとなります。被修飾語の方が先に来ます。インド・イラン語は、印欧語として厳密なので、述語を主語に付随する性質としてしか理解ができません。
椅子という単語には色の概念がないのに、なぜ椅子は赤くなることができるのだという愚にもつかない疑問が出てきます。日本人にはこの疑問は理解できません。それは日本人が阿呆だからではなく、日本語はそのような愚にもつかない疑問を持たなくてよいようにできているからです。
なぜ「椅子が赤をする(印欧語的表現を無理やり日本語に直しました)」という文章が成り立つのかというと、人間が脳みその中で、赤いという概念と椅子という概念を結び付けているからです。この脳の働きは日本語の表現の方に近いです。日本語は形容詞でも動詞ても何でもペタペタとくっつけて文章を作ってしまいます。この文法がまるでない日本語は不完全な言語であると20年くらい前まではいわれていたのですが、脳が文章を作る働きは日本語の方に近いです。
脳は別に主語と動詞と形容詞を区別してはいないのです。
結局言語は椅子と赤を結び付けている自己というものを想定しないと成立しません。
龍樹菩薩の大冒険は、自己を想定しなくても言語というのは意味をなすかということの解明でした。何度も言いますが、日本人にとってはこれは意味がないことなのです。
そもそも現代人が「自己を想定しないと言語は成立しない」という文章を作ることができるのは、現代人が「自己」いう概念を持っているからです。まで自己という概念を持っていなかった龍樹にとっては、椅子と赤が文章の中でつながることはどういうことなのか、というところから始めなければなりませんでした。
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