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2020年8月 1日 (土)

宗吾霊廟

先日成田の方へハイキングに行ってきました。当初の目的は麻賀多神社と松虫寺の参詣だったのですが、地図で調べてみたところ、江戸時代初期の代表的な義民である佐倉宗吾(佐倉惣五郎)ゆかりの土地だったことが分かり、佐倉宗吾関連の史跡も歩くことにしました。

 

京成の宗吾参道駅を降りて、まず東勝寺(宗吾霊堂)と佐倉宗吾の旧宅におまいりしました。

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東勝寺は佐倉宗吾のお墓があります。これはその山門です。大きいですね。

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本堂です。

東勝寺から北に1.5㎞くらい小径を歩いたところに、佐倉宗吾の旧宅があります。ふらっと尋ねると、奥から十七代目の当主が出てきて、詳しくご説明をしてくださいました。家の伝承と郷土史家の研究成果を交えた大変に詳細で専門的な内容で、とても勉強になりましたので紹介します。

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旧宅の写真。今でもご子孫が住んでらっしゃいます。屋根や壁は改築されているようですが、柱と梁は江戸時代から受け継いだものであるようです。

 

義民とは、民衆のために自分を犠牲にして、大名と戦った一揆のリーダーです。佐倉宗吾(佐倉惣五郎)、歴史上の人物としての本名は木内惣五郎です。彼は下総国印旛郡の公津村の名主でした(現在の千葉県成田市)。

木内家は下総の御家人千葉介氏の末裔です。源頼朝の腹心、千葉常胤の六男胤頼は下総国香取の所領を受け継いで木内氏を称しました。戦国時代まで下総国の有力な国人として続きましたが、小田原の陣で北条方として参陣したため、豊臣秀吉によってお取り潰しにあい、帰農していました。惣五郎は帰農して二代目でした。元々この地を400年にわたって支配していた御家人の末裔で、かつては城まで持っていたというのが重要です。

 

佐倉藩初代の堀田正盛は三代将軍徳川家光の寵臣でした。つまり衆道の相手です。振り出しは佐倉一万石だったのですが、どんどん加増されて最終的には12万石の大名になりました。譜代大名としては大身です。慶安四年(1651)に家光が死去した時に正盛は殉死します。子供の正信が二代目の藩主となりました。

堀田正信は領内に重税を敷いたと言われています。検地なども行われたようです。そのころ利根川の河道付け替え工事が行われており、そのための費用や人足の徴発があったのではないかともいわれています。名主は決められた額の年貢を藩に納めなければなりません。生活が苦しい領民の年貢を肩代わりすることも珍しくありませんでした。税率は七公三民(70%)に達したともいわれています。

 

常識的に考えて収入の70%を税金としてとられれば生活できません。でも江戸時代の税率というのは摘発されている財産に対してかかる税率です。税率70%でも、隠し田がある場合は全然苦しくはありません。検地は百年に一回くらいしかありませんでした。例えば新しい一万円札の意匠に選ばれた渋沢栄一の家のように、新田開発や手工業など手広くやっていた豪農の場合、実質的な税率は所得の1%未満ということもありました。七公三民はさすがに額面通りではないかもしれません。でも佐倉藩の場合はかなり厳しかったようで、このままでは生活が立ち行かないということで、公津村の名主6人は江戸の佐倉藩上屋敷に訴え出ることにします。

名主たちは江戸藩邸や堀田家の親戚筋に訴えてみたのですが、何の音沙汰もありませんでした。そこで老中に籠訴しました。これは当時の法律に反する行為でした。

しかし六人が罰せられていないところを見ると、幕府内部はこの名主たちの訴えに理解を示したのではないかと推測されます。しかし惣五郎たちには江戸城内部の動きを知る由もありません。堀田家の前藩主は家光の寵臣でしたし、堀田正信の母親は若狭小浜の酒井家の出身です。酒井家というのは譜代大名の筆頭ですから、このような華麗な家柄の藩政に口出しをするとなると、幕閣が対応するとしても相当な根回しが必要とされます。

 

しかしそうこうしている間にも領民たちは苦しんでいるわけで、痺れを切らした木内惣五郎は四代将軍家綱への直訴を決意します。累を及ぼさないために、まず他の五人の名主を佐倉に帰しました。そして、妻を離縁し、4人の子供を勘当しました。そして承応二年(1653)に家光の月命日で寛永寺に向かう家綱の行列に駆け込んで直訴をしました。これによって問題は将軍の知るところとなり、堀田家の苛政は弛められたと言われています。ただし堀田家はこの後取り潰されてしまうのでどこまで改善したのかは確認ができません。

しかし、面目を潰された堀田家は激怒し、木内惣五郎に対して厳罰で臨みます。惣五郎本人が磔死罪は当然として、離縁していたにもかかわらず幼い子供四人も死罪にしてしまいました。しかも四人の子供のうち三人は女児でした。これは江戸時代の慣例でもあまり例を見ないことです。この時に死罪になったのは、木内惣五郎42歳、長男彦七11歳、三女ホウ9歳、四女トク6歳、五女トヂ3歳でした。女児3人は男の名前に改名させられてから処刑されたと言われています。妻だけは離縁が認められて殺されずに済みました。尼となって家族の菩提を弔ったと言われています。

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 宗吾旧宅の内部、奥に仏壇があります。位牌も見せていただくことができました。

講談や歴史書でもこの時処刑されたのは男児4人ということになっています。ウィキペディアにも男児と書いてあります。しかしご子孫の伝承からは、講談の内容以上の厳しい現実が垣間見えます。

堀田家がかくなる厳罰で臨んだ理由は、木内氏が有力な国人であったからと思われます。おそらく反乱であると早とちりしたのでしょう。堀田家は惣五郎と四人の子供の墓を作ることを許しませんでした。木内家の宗旨は曹洞宗ですが、菩提寺も堀田家を恐れて五人の供養をしませんでした。しかしその時に五人の供養をかって出たのが真言宗の東勝寺だったそそのこと。したがって宗吾霊廟は真言宗です。

堀田家は一年後に後悔して、惣五郎の供養を認め、木内家の再興も認めました。常陸国水戸領内の名主に嫁いでいた次女を呼び返して、土地の者と再婚させたそうです。藩が違ったので、累が及ばなかったのです。伝承によると嫁いだ先の旦那さんとは死別していたそうです。現在の木内家はその子孫にあたります。木内家は代々利左エ門を名乗ったそうです。慌てて家を再興させているところから、当時としてもかなり評判の悪い措置だったのではないかと推察されます。

 

これがこのたびの訪問から推測した史実です。ここで重要なことは、木内家が有力な国人だったことです。それならば堀田家が慌ててやり過ぎてしまったことは理解はできます。一年で後悔したことからも、堀田家の木内家に対する処断が当時から不評だったことが伺えます。10歳にもならない子供、しかも女の子を3人も殺すというのも江戸時代としてはかえって藩の評判を落とすような措置ということもできるでしょう。

 

堀田正信は万治三年(1660)に、幕政批判の上奏文を老中に提出して佐倉に無断帰国してしまい、佐倉藩はお取り潰しになります。正信はその20年後の延宝八年(1680)に、預け先の徳島で徳川家綱死去の報を聞き、鋏で喉をついて殉死してしまいます。この後佐倉藩は別の家を転々とした後、延享三年(1746)に奇しくも再び堀田家(正信の弟の子孫)の手に戻ってきます。堀田家もその後は、代々東勝寺への寄進を欠かさないようにして、木内惣五郎を供養します。百回忌は堀田家の手で盛大に行われ、木内惣五郎は公に認められた義民となりました。宗吾というのは百回忌の戒名の一部です。

義民佐倉惣五郎・佐倉宗吾の伝説は江戸時代から講談などで広まっていましたが、明治以降は自由民権運動家がこれを取り上げたためにさらに大流行していったのでした。歌舞伎にもなります。こうして、佐倉宗吾は民衆を救った義民の代表として、日本全国に広く知れ渡るようになったのです。

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コメント

ご当主の貴重なインタビューとお写真を拝見いたしました。
時系列を大事にしたわかりやすい解説も有難うございます。
講談から絵本まで様々な形で触れる機会の多い題材ですが、
自分の足で訪れ、色んな形で受け継がれたものを耳にし、
丁寧に、冷静に捉え直すことの大切さを感じます。
旅行記これからも楽しみにしています。

a Jelly Doughnutさん、はじめまして。そしておほめいただき恐縮です。

私はアイスバインが好きです。でも本場で蹄が丸ごと一個出てきたときには途方に暮れました。

なんでもネットで得られそうで、現場に行かなければ得られないことはまだまだ多いです。

これからもよろしくお願いいたします。

徳川の世になったとは言え、まだ戦国以来の国人が強い影響力を持っていた時代だったのですね。
それだけの家柄を持つ国人なら、秀吉が死んだ後に旗本や大名の家臣になる道もあったと思いますが、あえて帰農したのは先祖代々の土地で生きていく事を選んだのでしょう。かつての領民の生活が脅かされた時、一揆を起こすのも自然な選択だったのでしょう。

義民と呼ばれた人たちのかつての身分を調べたらそういう結論が出る可能性はありますね。

自由民権運動家も、戦後の知識人も、民衆の自発的な抵抗運動という視点で義民を語りましたが、もしかしたら本人はノーブルオブリッジメントのつもりであった可能性もあります。

あと、この行動には鎌倉時代から続く「一所懸命」の意識もあったでしょうね。「一所懸命」が日本版のノーブルオブリッジメントを産んだというのも、面白そうな仮説です。

日米英は似た価値観を持っていますけれども、一所懸命だけは米英、特に米国とは距離がありますね。

日本の場合は、身分の差というよりは、同じ土地に生きる運命共同体だからこそ生まれる責任感です。

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